加古川80選めぐり 3

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51.志方の城山
(中道子山)
  
   
志方町の東の端に位置し、中世の城跡があります。
室町時代に赤松一族が築き、約170年間続いた東播磨で有数の城跡です。
軍用金埋蔵にまつわる歌や、敵の侵入を防ぐ目的で山腹に竹の皮を敷き詰めたが火を放たれ、兵糧米をまいて鎮火に努めたものの、落城に至ったという伝説が残っています。
登山道は整備され、頂上からは七つ池、東に権現ダム、西に高御位山、南は播磨灘まで見渡せる絶景です。

 
播磨国守護赤松氏範(氏則)によって築かれ、本丸・二の丸・三の丸から構成され、東播磨で最大の約66,000平方mの広さがあります。

山城跡には、城攻めの時に、斜面に竹の皮を敷いたが火をつけられた、坂の上から鯛をかかげ食料があると見せつけたなどの伝説が残っています。 

53.平之荘神社・報恩寺
  
  
平之荘神社は、明治初年の神仏分離まで、西隣の報恩時の鎮守神でした。
祭神は建速素盞嗚尊(たけはやすさのおのみこと)です。
播磨守護・赤松則村の庇護を受け、近郷の人々のお参りが盛んでした。
現在の本殿は享保18年(1733)の造営と云われています。 毎年10月体育の日の前々日と前日に行われる秋祭りには、獅子舞、樽みこしが奉納され、多くの人で賑わいます。
報恩寺は真言宗の寺院で、本尊は十一面観世音菩薩です。
元明天皇の和銅6年(713)、慈心上人の開基と云われています。 鎌倉・室町時代の石造遺品が多く、県指定重要文化財の石造十三重塔、市内最古の石造五輪塔などがあります。


57.日岡神社
     
  
主神は天伊佐々彦命(あめのいささひこのみこと)です。
景行天皇の皇后稲日大郎媛(いなびのおおいらつめ)が御懐妊された時、最初の皇子が大変難産だったため、七日七晩天伊佐々彦命が安産を祖神に祈願したところ、無事御出産されました。
このことから「安産の神様」としてその名を馳せ、播磨随一の大社となりました。
現在でも安産祈願や御宮参りなど参拝者が絶えません。
社殿に向かって右側手前に日岡御陵への表参道があります。


63.五社宮野口神社
  
旧山陽道にある神社の主神は日吉大神(ひえ)で、比叡山延暦寺の守護神日吉大社から分霊をお迎えし、のちに四柱の神を合わせ祀ったという説があります。
神社の西にある教信寺は延暦寺の末寺であることから深いつながりがあります。  


69.厄除八幡宮
(八幡神社)
  
   
祭神は息長足媛命(おきながたらしひめのみこと:神功皇后)、品陀別命(ほんたわけのみこと:応神天皇)、仲姫命(なかつひめのみこと:応神天皇の皇后)で、天平勝宝年間に孝謙天皇のご願所として建てられました。
九州の宇佐八幡に向かう和気清麻呂が道鏡の家来に襲われたとき、一頭の大猪が現れ清麻呂を救ったという伝説があります。
それ以来、厄除の大神様として崇拝されるようになり、「宗佐の厄神さん」と呼ばれています。
2月18・19日の厄除大祭には多くの参拝者が訪れ、露店や植木市で賑わいます。  

野村城主は3つの説があります。
1.文明元年(1469)から天文年間(1532-54)まで野村氏の居城でした。

2.城主名は不詳で、三木城主・別所氏の幕下といわれていた。

3.天正六年(1578)、秀吉の中国平定出兵の時、秀吉の幕下に参加し、天正八年(1580)の三木城攻めでは法界寺の裏山の防御を落として、善祥房砦を築いたといわれる宮部善祥坊(継潤:つぐます)です。

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