兵庫県高砂市高砂町横町1074 | |
兵庫のお寺めぐり | |
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嵯峨帝弘仁6年(815)、弘法大師(空海)が中国へ渡航するに際し、海上安全を地蔵菩薩に祈願します。 播磨灘にて霊感を受けられ無事所願成就、帰朝後地蔵十輪経の趣旨にのっとり、鎮護国家や内海航行安全の祈願所として、他の七ケ寺(薬仙寺、延命寺、極楽寺、西福寺、松楽寺、観音寺、来迎寺)と共に創設しました。 その後一時は廃退していましたが、中興24世律空悦道上人が、元禄6年(1693)に入山し、再建しています。 |
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旧高砂城主・梶原景秀公の由来 梶原一族は鎌倉幕府の創設に貢献し、その後水軍を率いて当地に入り、文明元年(1469)高砂城を構築します。 またこの地を基地として、海外通商に雄飛し東播地方に重きをなしました。 天正7年(1579)、最後の城主・梶原景秀公は黒田官兵衛の仲介により秀吉に帰順し、その子孫の一部は塩座役などを勤めました。 |
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三浦一族の墓 三浦一族は鎌倉幕府の創立に貢献し、長年三浦半島を中心に栄えていました。 しかし北条早雲に滅ぼされ、永正15年(1518)に義高公が高砂に亡命します。 この時、高砂城主・梶原氏との縁故を頼ったとのことです。 その子孫は江戸時代には、「塩や甚兵衛」と名乗り、大庄屋を務めています。 |
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工楽松右衛門の墓 寛保3年(1742)高砂市東宮町の漁師の長男として生まれます。 船乗りの松右衛門は、船の帆がむしろや綿でできていることで丈夫でなかったので、播州の特産である太い木綿糸を用いて、厚く大きな平織りの帆布の開発をし「松右衛門帆」と名付けられました。 |
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この帆布は全国に普及し、北前船をはじめ航海術は飛躍的に向上しま 工楽松右衛門旧宅もすごく整備され、今や高砂の観光地だね。 工楽松右衛門、そう、司馬遼太郎の「菜の花の沖」に高田屋嘉兵衛の物語に出てくるよね。 『現地案内を参照』 |
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