古高俊太郎邸跡

京都府京都市下京区河原町通四条上る一筋目東入南側

京都府の幕末史跡3
  
古高俊太郎は、文政12年(1829)、近江国大津に生れ、父・周蔵は近江国栗太郡物部村古高の出で、大津代官・石原清右衛門に仕え、のち山城国山科毘沙門堂門跡の家臣となります。

俊太郎も同門跡の近習となり、和歌を烏丸光徳に学び、公家との交流も深めました。

また梅田雲浜の門で勤王思想を学び、勤王志士とも交わり、同士の一人、湯浅五郎兵衛の依頼で湯浅喜右衛門の養子となり、枡屋湯浅喜右衛門と変名して、この地に「枡屋」を構えました。
  

密かに武器を集め、同士と連絡を取って援助をするなど、多くの志士が集う倒幕活動の拠点となっていました。

しかし元治元年(1864)、旧暦6月5日早朝、新選組に捕縛され壬生の屯所で過酷な拷問を受けたとされます。

これが三条小橋の旅館・池田屋における「池田屋事件」の端緒となったと云われています。

元治元年(1864)、禁門の変に際し洛中は大火となり7月20日、六角獄舎で処刑されるのです。 享年三十六歳でした。  『現地案内を参照』