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坂本龍馬・中岡慎太郎遭難の地 | ||
京都市下京区西新屋敷揚屋町 | ||
慶応3年(1867)11月15日、維新の功労者である土佐藩海援隊長の坂本龍馬(1835-67)が盟友である陸援隊長の中岡慎太郎(1838-67)とともに刺客に暗殺された近江屋(醤油商)があった所です。 | ||
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古高俊太郎邸跡 | ||
京都市下京区河原町通四条上る一筋目東入南側 | ||
梅田雲浜の門で勤王思想を学び、勤王志士とも交わり、この地に「枡屋」を構えました。 元治元年(1864)、新選組に捕縛され壬生の屯所で過酷な拷問を受けたとされます。 |
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島 原 | ||
京都市下京区 | ||
寛永18年(1641)、急な移転が九州島原の乱の直後であったため、島原と称されるようになりました。 西郷隆盛、久坂玄瑞や新選組らが出入りしていたそうです。 |
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新選組刀傷の角屋 | ||
京都市下京区西新屋敷揚屋町 | ||
角屋は、寛永18年(1641)の島原開設当初から連綿と続く揚屋(現在の料亭)です。 幕末ごろは、新選組の局長クラスの宴会があり、また隊士が勤王派を探索に来ましたが、ここでは池田屋のよな乱闘はありませんでした。 |
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久坂玄瑞の密議の角屋 | ||
京都市下京区西新屋敷揚屋町 | ||
幕末には西郷隆盛・久坂玄瑞などの勤皇の志士たちが、軍用金調達のために豪商を招いて会議を行い、また彼等を探し求めた新選組が乱舞した場所でもありました。 | ||
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新選組 太鼓楼 | ||
京都市下京区鳥居前町 | ||
新選組は、「池田屋騒動」(元治元年1864)以降隊士が増え、壬生の屯所では狭くなったこともあり、慶応元年(1865)、屯所を壬生から本願寺に移し、境内に「新選組本陣」の看板を掲げ、北集会所と太鼓楼を使用していました。 | ||
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新選組不動堂村屯所跡 | ||
京都市下京区松明町 | ||
慶応3年(1867)、新選組が屯所を西本願寺から不動堂村へ移転しました。 12月14日、伏見奉行所へ引き払うまで6ケ月間、屯所として使用していました。 |
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新選組洛中最後の屋敷跡 | ||
京都市下京区南不動堂町 | ||
新選組がこの地域に屋敷を営み、池田屋事件や禁門の変などでの活躍や、局長・近藤勇の政治的力量が高く評価され、慶応3年(1867)6月、徳川慶喜の直属の軍隊となりました。 | ||
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新選組まぼろしの屯所跡 | ||
京都市下京区南不動堂町 | ||
慶応3年(1867)、新選組が徳川慶喜の直属の軍隊となり、あわせての新屋敷を構えて屯所にしたのが、このあたりと云われています。 | ||
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佐賀鍋島藩 屋敷跡 |
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京都市下京区四条通堺町通南東角 | ||
科学技術機関を創設、鉄鋼、加工技術、大砲、蒸気機関、電信、ガラスの生産を行うなど、近代化された藩でした。 慶応4年(1868)、戊辰戦争では江戸での上野戦争に参加したことで、明治政府に多くの人物が登用されました。 |
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池田屋事変殉難志士墓所跡碑 | ||
京都市東山区大橋町400 | ||
元治元年(1864)6月5日、池田屋で新選組隊士に襲われ命を落とした志士達は、浄土宗法輪山三縁寺墓地に葬られました。 のち昭和54年には岩倉花園町に再葬されています。 |
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坂本龍馬お龍「結婚式場」跡 | ||
京都市東山区五軒町10 | ||
元治元年(1864)8月初旬、本堂にて坂本龍馬と妻・お龍(鞆)は「内祝言」をあげた所です。 | ||
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御陵衛士屯所跡 | ||
京都市東山区下河原町536 | ||
ここ高台寺真院は、慶応3年(1867)6月から11月にかけて、熱烈な勤王主義者であり、孝明天皇の御陵衛士(天皇の墓の守護者)と称した伊東甲子太郎(かしたろう)ら15名が屯所とした寺院です。 | ||
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翠紅館 (すいこうかん) |
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京都市東山区桝屋町356 | ||
たびたび志士達の会合の場となっていました。 文久3年(1863)、土佐藩の武市半平太、長州藩の井上聞多、久坂玄瑞ら多数が集まり、6月にも長州藩の桂小五郎、久留米藩の真木保臣(和泉守)らが集まり、攘夷の具体的な方法が検討されました。 |
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京都霊山護国神社 | ||
京都市東山区清閑寺霊山町1 | ||
霊山護国神社は幕末・維新に殉じた志士と、大東亜戦での京都府出身の英霊七万三千十一柱を奉祀しています。 | ||
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維新の道 | ||
京都市東山区清閑寺霊山町1 | ||
明治百年にあたる昭和43年、有志いよって発足した霊山顕彰会の手でこの付近が整備されました。 石碑の字は、初代会長の松下幸之助の筆です。 |
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坂本龍馬 中岡慎太郎お墓 | ||
京都市東山区清閑寺霊山町1 | ||
慶応3年(1867)11月15日、近江屋にて坂本龍馬と中岡慎太郎は刺客の襲撃に遭うのです。 坂本龍馬と中岡慎太郎の葬儀は近江屋において行われ、ここ霊山に埋葬されています。 |
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佐藤政養招魂之碑 | ||
京都市東山区常盤町468-15 | ||
佐藤政養(1821-77)は、勝海舟門下の逸材として、卓抜した土木、測量の技術をもって、近代日本の建設に大きく貢献した人物です。 | ||
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御香宮神社 | ||
京都市伏見区御香宮門前町 | ||
明治元年(1868)、鳥羽・伏見の戦いでは官軍(薩摩藩)の本営になり、幕府軍(会津藩、新選組)の本営である伏見奉行所を砲撃して陥落させています。 | ||
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戊辰役戦場跡 | ||
京都府京都市伏見区納所町71-28 | ||
戊辰戦争の初戦となった「鳥羽・伏見の戦い」が行われた戦場跡です。 | ||
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戊辰役砲弾貫通跡 (妙教寺内) |
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京都市伏見区納所北城堀町 | ||
応4年(1868)、旧幕府軍と新政府軍との間で鳥羽・伏見の戦いがあり、妙教寺の上を両軍の砲弾が飛び交ったと云われています。 その内、重さ4キロの砲弾一発が本堂南側の壁と位牌壇を突き破り、北側の柱も貫通したのです。 |
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十七烈武の墓 | ||
乙訓郡大山崎町大山崎天王地内 | ||
文久3年(1864)、禁門の変の時、敗れ天王山の山中で自刃した隊長真木和泉守平保臣以下十七名のお墓です。 | ||
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