金ケ崎合戦

福井県敦賀市金ヶ崎
福井県の太平記史跡
  
ここは福井県、すぐ前が海だよ。

太平記では、新田軍と足利軍が戦い、戦国時代には信長が朝倉義景と浅井氏に挟み撃ちにされた時、秀吉はこの金ヶ崎に残り、しんがりを務めます。

  
「金ケ崎城跡」

建武の新政の後、足利尊氏は後醍醐天皇と対立し、建武3年(1336)5月25日には湊川合戦で勝利します。

天皇方の新田義貞は二人の皇子・恒良親王と尊良親王を伴って北陸を目指し、気比神宮の宮司である気比氏治に迎えられ金ケ崎城に入ります。

   
「金崎古戦場」

尊氏の一門である斯波氏の越前国守護斯波高経は金ケ崎城を包囲し、兵糧攻めを行いました。

半年持ちこたえ、新田義貞は2人の皇子と長男・義顕(よしあき)を残して援軍を求めるために脱出、しかし金ヶ崎城は落城するのです。

  
「尊良親王御陵墓見込地(たかよししんのう)」

安政年間(江戸時代)、この地付近より経塚が発見され、石室からいずれも銅製の経筒、円鏡、椀が出土しました。

明治23年、金崎宮が官幣中社に列され、社殿を竣工、それに先立ち尊良親王御陵墓見込地の碑が建てられました。

   
「絹掛神社」

延元2年(1337)、金ケ崎城の落城の際、尊良親王に殉じて総大将・新田義顕以下三百二十一名の武士が自刃します。

祭神はその人達で、氏名の判明する者は僅かに十数名、大半は敦賀を中心とする各地からの無名戦士で、籠城五ケ月糧食も尽き果てていたと云われています。

『現地案内とWikipediaを参照』

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