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福井県 |
小黒丸城 | ||
福井市黒丸町 | ||
足利方である斯波高経の拠ったお城で、足羽七城の中でも随一の堅囲を誇る城でした。 延元4年(1339)7月、南朝方の新田勢により落城しました。 |
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藤島城 (西超勝寺) |
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福井市藤島町37-1 | ||
足利氏の有力一門・越前守護職斯波高経は、延元3年・建武5年(1338)2月、高経は新田義貞との日野川の戦いで破れ、のち九頭竜川と足羽川流域に構えた城『足羽の七城(あすわななじょう)』 の一つです。 | ||
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正覚寺 (新善光寺城) |
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越前市京町2丁目 | ||
元弘3年(1333)、斯波高経は尊氏に従い、のち越前守護職に就き、高経は新善光寺城を築きます。 新田義貞は斯波高経との交戦中に戦死します。(藤島の戦い)この戦により、町は焼け城も陥落してしまうのです。 |
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称念寺 (新田義貞公御墓所) |
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坂井市丸岡町長崎19-17 | ||
湊川で敗北した義貞は琵琶湖を経て、北陸へ向かい、金ケ崎城に入るも、足利軍の攻撃を受け陥落、義貞さらに逃れます。 義貞は越前国藤島の燈明時畷にて戦死するのです。(藤島の戦い) |
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金ケ崎合戦 金ケ崎城 |
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敦賀市金ケ崎町 | ||
建武の新政の後、足利尊氏は後醍醐天皇と対立し、建武3年(1336)湊川合戦で勝利します。 天皇方の新田義貞は二人の皇子・恒良親王と尊良親王を伴って金ケ崎城に入ります。 |
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金ケ崎合戦 金崎古戦場 |
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敦賀市金ケ崎町 | ||
新田義貞は2人の皇子と長男・義顕(よしあき)を残して援軍を求めるために脱出、しかし金ヶ崎城は落城するのです。 | ||
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金ケ崎合戦 尊良親王御陵墓見込地 |
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敦賀市金ケ崎町 | ||
安政年間(江戸時代)、この地付近より経塚が発見され、石室からいずれも銅製の経筒、円鏡、椀が出土しました。 明治23年、尊良親王御陵墓見込地の碑が建てられました。 |
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金ケ崎合戦 網掛神社 |
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敦賀市金ケ崎町 | ||
延元2年(1337)、金ケ崎城の落城の際、尊良親王に殉じて総大将・新田義顕以下三百二十一名の武士が自刃しました。 | ||
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