池田屋騒動跡
京都府京都市中京区河原町三条東入ル北
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  文久3年(1863)、嵐のように吹き荒れた尊攘派の倒幕運動も沈静化の兆しを見せ始め、幕府は市中の治安回復に向け、なお一層の取り締まりを行いました。

その先峰お務めたのが、京都守護職直属の新選組でした。

元治元年(1864)6月5日早朝、新選組はかねてより探索していた、四条小橋西で薪炭商(しんたんしょう)を営む桝屋喜右衛門こと、古高俊太郎を捕らえました。
 
  実は古高は、倒幕派の近江郷士で土蔵から武器や具足が発見されました。

古高を壬生屯所に連行し、土方が厳しく取り調べた結果、御所を焼き討ちし守護職の松平容保を襲う計画が発覚します。

近藤は直ちに守護職、所司代、奉行所、会津藩に通報し、夜五つ刻(九時ごろ)に祇園会所で会津藩兵と待ち合わせをしました。
    
しかし会津藩は約束の五つになっても来ず、痺れを切らした新選組は、浪士狩りを一刻の猶予も出来ないと近藤隊は鴨川西側木屋町を北へ、土方隊は鴨川東側縄手を北へと二手に別れて潜伏場所の茶屋、商屋、旅籠等を御用改めをしました。

一方、古高が連行されたことを知った倒幕派は、新選組の屯所を襲撃し、古高を奪還すべしと主張し潜伏中の倒幕派に、三条小橋西の旅籠「池田屋」に集合するよう回状が送られ、長州藩士・桂小五郎も池田屋に来ましたが早く来すぎて、池田屋裏の対州藩邸に寄っていたので難を逃れたと云われています。

近藤隊が三条小橋付近についたのが十時頃、一軒の宿屋「池田屋」に明かりが漏れていることに不信を抱き、十名のうち、六名で表口、裏口をかため、近藤、沖田、永倉、藤堂の四人で屋内へ入ります。

近藤は、宿の者に「御用改め」であると告げると、主人池田屋惣兵衛が慌てて二階に駆け上がり、後を追って近藤が二階に上がると、そこには集会中の諸藩の倒幕派二十数名がいました。

沖田が立ち向かってきた男を斬り、すぐに乱闘になると、屋内で闘う者、二階から外に飛び降りる者、階段を駆け下りる者、これを隊士が迎え撃ちます。

途中から土方隊らが加わり、戦いは三時間ほど続き、近藤隊からは1名死亡、藤堂、永倉が負傷し、倒幕派は肥後藩士、宮部鼎蔵他6名が斬死しました。

予定時間を大幅に遅れて会津藩兵500名が到着したころには、すでに戦いは終わり、この事件で倒幕が一年遅れたといわれるほど、尊攘派は大きな痛手を被りました。

一方、この事件によって新選組の勇名は世に響くことになったのです。

『現地案内を参照』

 
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