京都府の幕末史跡 2

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No.
史 跡
名 称
一口メモ 
所在地
16 土佐藩邸跡 土佐は武市瑞山、坂本龍馬、中岡慎太郎、後藤象二郎らの志士が活躍したんだ。 京都市中京区木屋町通
 
17 彦根藩邸跡 彦根の井伊家は幕府に参与していました。
安政5年に大老になった13代・井伊直弼は日米修好通商条約などに調印します。
京都市中京区大黒町67-3
      
 18  佐久間象山
大村益次郎
遭難之碑
佐久間象山と大村益次郎が襲われた場所がここから北へ一丁のところにあります。 京都市中京区石屋町(木屋町通)
    
19 佐久間象山遭難之碑 元治元年(1864)7月11日、木屋町通を馬に乗って通りかかった象山は、刺客に襲われ斬られて絶命するのです。 京都市中京区上樵木町
    
20  大村益次郎遭難之碑 明治2年(1869)9月4日、木屋町通の東側にあった宿所で大村益次郎が刺客に襲われ斬られ、その傷がもとで、同年11月5日大阪の病院で没します。 京都市中京区上樵木町
    
21 吉村寅太郎寓居之跡 吉村寅太郎は土佐の人、武市半平太の教えを受けて勤王党に加わります。
のち土佐を抜け出し、尊王攘夷運動の中心の一人として活躍、各藩の志士を集めて討幕軍を組織したんだ。
京都市中京区木屋町通三条上る東側
    
22 武市瑞山先生寓居之跡 黒船が来た時、土佐勤王党を結成し尊王攘夷運動の中心になった。
会津藩と薩摩藩により、長州藩が失脚すると、勤王派は衰退し代わって公武合体派が主導権を握ります。
京都市中京区上大阪町528
    
23 佐久間象山寓居之跡 佐久間象山は信濃松代藩の出身、23歳で江戸に出て朱子学を学び「象山書院」を開きます。 京都市中京区上大阪町516
    
24 桂小五郎像 長州屋敷跡の桂小五郎。
明治維新を成し遂げ近代日本の礎を築きます。
京都市中京区一之船入町
    
25 坂本龍馬寓居之跡 坂本龍馬が住んでた所だね。 京都市中京区河原町通三条下る一筋目東入北側
    
 26  木戸孝允旧跡 明治元年(1868)、木戸孝允は総裁局顧問に拝命され、明治新政府のかじ取りを任されることになります。
明治10年(1877)、病気が重症化し、5月26日、木戸孝允はここで世を去るのです。(享年45歳)
京都市中京区土手町通竹屋町下ル
       
 27  兵部大輔大村益次郎公遺址 明治2年(1869)、大村益次郎は戊辰戦争の功績で新政府の幹部となり、軍務官副知事に就任し、軍政改革の中心を担いました。
京都三条木屋町の旅館で刺客に襲われ、重症を負い,、それが原因で命を落とします。
京都市中京区上樵木町495-1
    
28 橋本左内萬居跡 安政5年(1858)2月から4月まで、この地にあった福井藩邸に居住して、一橋慶喜を立てる運動を展開します。
1859年の安政の大獄により死刑に処されたのです。
京都市中京区矢幡町301
    
 9 福井藩邸跡 福井藩は、慶長5年(1600)徳川家康の二男結城秀康が封ぜられたのに始まる親藩の雄藩です。
この藩邸は、幕末の福井藩の活躍にとって大きな役割を果たしました。
京都市中京区油小路通二条下る西側
    
 30  長州藩邸跡 高瀬川一之舟入の南側から御池通までの、河原町通から本屋町通に至る一帯は、江戸時代初期に長州藩毛利氏の藩邸が置かれた所で、幕末維新期の重要な政治的拠点となりました。 京都市中京区一之船入町
      
31 肥前鹿島鍋島藩屋敷  佐賀藩は明治維新を推し進めた薩長土肥のひとつです。
副島種臣、江藤新平、大隈重信、大木喬任(たかとう)、佐野常民(つねたみ)らが活躍し、日本の近代化に貢献しました。
京都市中京区新町通御池西南
    
 32 池田屋騒動跡 元治元年(1864)、池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を京都守護職配下の治安維持組織である新撰組が襲撃した事件です。 京都市中京区河原町三条東入ル北
    
 33  三条大橋 禁門の変の後、「長州の残党に騙されるな、かくまったら同罪であるど」という高札があげられました。
土佐藩の藤崎吉五郎、宮川助五郎はじめ八人が高札を抜こうとした時、新選組と衝突するのです。
京都市中京区中島町
      
34 光縁寺 光縁寺には、28名の新選組隊士関係者が埋葬されています。
三つのお墓は、右は山南敬介ら5名、中央は大石造酒蔵、左は松原忠司ら12名で、右隣には沖田総司の縁者のお墓があります。
京都市下京区四条大宮町
      
35 新選組屯所
新旧前川邸
文久3年(1863)、関東から将軍護衛のために来た新選組は、前川邸と八木邸を屯所としています。 京都市中京区壬生賀陽御所町
    
36 八木邸 浪士組時代、近藤勇と試衛館一門7名や芹沢鴨、新見錦、平山五郎、平山重助、野口健司らが宿としました。 京都市中京区壬生梛ノ宮町
    
37 壬生寺 文久3年(1863)、前川邸と八木邸を宿舎とした新選組は、近くの壬生寺を兵法訓練場として使い、剣術、馬術や大砲の訓練が行いました。 京都市中京区壬生梛ノ宮町
    
38   壬新選組隊士慰霊塔 壬生寺境内の壬生塚です。
新選組隊士11名、近藤勇、芹沢鴨、平山五郎、河合耆三郎、阿比原栄三郎、田中伊織、野口健司、奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門、葛山武八郎が祀られています。
京都市中京区壬生梛ノ宮町
    
39 近藤勇像 壬生寺境内の壬生塚にあります。
俳優・故上田吉二郎が発起人となり建立され、左側には近藤勇の「遺髪塔」があります。
京都市中京区壬生梛ノ宮町
   
40  本間精一郎遭難地 文久2年(1862)閏8月20日夜、勤王の志士・本間精一郎はここで襲われます。
襲った八人の中には薩摩藩の田中新兵衛や土佐藩の岡田以蔵もいたと云われています。
京都市中京区下樵木町208
      
41 森寛斎宅蹟 森寛斎は、山口県の出身で、長州藩士であり、絵師、日本画家として京都を中心に活躍しました。 京都市中京区蛸薬師町
    
42 梅田雲浜邸  嘉永6年(1853)、ペリーが来航すると、条約反対と尊王攘夷の志士たちの先鋒となり、大老・井伊直弼による安政の大獄で摘発され、逮捕されるのです。
取り調べの拷問でも口を割らず、安政6年(1859)10月9日、獄中で病死しました。
京都市中京区二条殿町
  
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