兵部大輔大村益次郎公遺址
京都府京都市中京区上樵木町495-1
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  明治2年(1869)、大村益次郎は戊辰戦争の功績で木戸孝允、大久保利通と並び新政府の幹部となり、軍務官副知事に就任し、軍政改革の中心を担いました。

国民皆兵を目標とする益次郎の意見は周囲の理解を得られなく、建軍構想はことごとく退けられます。

益次郎は辞表を出しましたが、木戸孝允は支持を約束して、新たに設置される兵部省に出仕することを求め、益次郎は兵部大輔に就任することになりました。
   

明治2年(1869)、益次郎は大阪城近くに兵学寮を設け、フランス軍をモデルとする新しい軍の建設を始めます。

益次郎は軍事施設の視察と建設予定地の下見のために京阪方面に出張し、8月13日、伏見練兵場の検閲や弾薬庫予定地の検分を済ませました。

8月20日には大阪へ行き、大坂城内の軍事施設の視察、天保山の海軍基地を検分する予定になりました。

9月3日、京へ帰り、4日に京都三条木屋町の旅館で、長州藩大隊指令の静間彦太郎、鳩居堂時代の教え子で伏見学寮教師の安達幸之助らと会食中、元長州藩士の団伸二郎や神代直人ら8人の刺客に襲われ、益次郎は重症を負いました。

益次郎は一命をとりとめましたが、7日に山口藩邸へ送られ、数日間の治療を受けました。

しかい傷口から菌が入り、蘭医ボードウィンや緒方惟準らの治療を受け、大阪の病院に転院します。

ボードウィンの大腿部切断の手術を受けることになるのですが、東京との調整に手間取り、手遅れとなり、11月1日敗血症による高熱を発し、11月5日の夜に死去されるのです。 享年45歳

『Wikipedisを参照』
   
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