新往来 (しんおうらい)
岡山県岡山市東区藤井
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  幕末ペリーの浦賀来航、尊王攘夷運動などで、諸国の志士、浪人の往来もはげしくなり、備前藩でも岡山城の警戒を強め、山陽道を通行する人々に神経をとがらせていました。

折しも、長州藩の下関砲撃事件を発端に、幕府の開国政策とこれに反対する長州藩の攘夷実行により、幕府は元治元年(1864)長州征伐を断行しました。
  
  備前藩では長州征伐に赴く諸藩の藩士が、岡山城下を通行することを回避するため、一時的に山陽道の岡山城下の通過をやめ、その北方を迂回させたのです。

藩は藤井宿から北に山陽道をつけかえ、宿奥、奥矢津、牟佐、旭川渡りの新往来を建設し、元治元年(1864)7月25日より諸大名をはじめ、全ての山陽道通行者に新往来を通行させるようにしました。

『現地案内を参照』
    
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