物部守屋大連墳
大阪府八尾市太子堂
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物部守屋大連墳(おおむらじ)です。 物部氏は神武天皇の時代から大王家に仕え、鉄器や兵器を掌握していた氏族で、大伴氏と並ぶ軍事氏族でした。
第29代・欽明天皇の頃、百済から贈られた仏像を巡り、蘇我稲目を中心とした崇仏派と物部尾興や中臣鎌子らの俳仏派が争います。
物部守屋と蘇我馬子の代になり、疫病が流行ると守屋は異国の神を信じたために疫病が起きたとして、仏法を止めるように詔します。
用明天皇2年(587)、守屋は朝廷を去り、阿都(河内国)へ退くと、馬子は泊瀬部皇子(後の崇峻天皇)、竹田皇子、厩戸皇子(聖徳太子)らを率いて守屋を攻めました。
守屋は稲城を築き、木の上から矢を射ると蘇我勢は退却、これを見た厩戸皇子は四天王の像を造り、戦勝を祈願して軍を立て直します。
物部守屋は迹見赤檮が放った鏑矢で命を落としたと云われています。
『Wikipediaを参照』
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