[1] [2] [ふる里まちづくり] | |
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53.諏訪神社 | |
西岡屋 |
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天平勝宝のころ(749-758)、信濃国諏訪大社のご分霊を勧請しました。 あるとき神々しい大蛇が現れ、飛の山を七巻半し「安産さそう、五穀豊穣、武運長久」といったと云われています。 |
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54.飛の山三四郎稲荷神社 | |
西岡屋579 | |
青山忠裕(ただやす)が幕府の老中の頃、江戸両国の相撲春場所に飛び山三四郎ら八名らが勝ち続けました。 忠裕が褒美をやろうとしましたが、どこにも見当たらず、皆稲荷神社の名前だったのです。 |
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55.安生山 大膳寺 | |
北新町 | |
人皇45代・聖武天皇の御宇神亀年中、行基菩薩の開基です。 南に「市野眞徳翁 屋敷跡」があり、煙火で両手を無くしても、筆を腕に結んで青山氏の系譜編集記録本「仰青録」を完成させた人物です。 |
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56.大宝山蟠龍庵 (はんりょうあん) | |
東岡屋708-1 | |
旧篠山藩主・青山家の菩提寺です。 延宝4年(1676)、青山宗俊公が遠江国浜松城主の頃、大徳寺より祥山和尚を開祖として迎え創建されました。 青山家累代の廟所のほか、元藩主・松平家ゆかりの阿弥陀堂などが残存しています。 |
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57.磯宮八幡神社 | |
野々垣205 | |
承平3年(933)、岩清水八幡宮より分霊しました。 建武3年(1336)には足利尊氏が九州への途中に参拝、八上城主・波多野秀治も崇敬しています。 |
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58.裸榧(はだかひつ) | |
野々垣205 (磯宮八幡神社の境内) |
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足利尊氏が天皇方に敗れ、都から九州へ逃げのびる途中にこの地に立ち寄りました。 殻をむいたカヤの実を神前に捧げて武運長久を祈ったと云われています。 |
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59.六本柳 | |
上宿 | |
もとはここに6本あって「六本柳」と呼ばれています。 一条天皇の命で源頼光ら6名は丹波大江山の酒顛童子(しゅてんどうじ)討伐に向かいます。 途中、休憩し持っていた柳の杖を突きさしたところ、大きく生長したのです。 |
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60.松平又四郎と血寄地蔵 | |
上宿 | |
篠山城主・松平康信の甥である松平又四郎は、不行状の生活を続けました。 やむをえないと考えた康信は、又四郎に波々伯部神社への代参を命じ、途中この附近で家臣に惨殺させたのです。 のち村人たちがお祀りしたのがこのお地蔵様です。 |
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61.薬王山 西光寺と仏像 | |
畑市 | |
天平3年(731)、行基が開創し、自ら刻んだ薬師如来像を本尊としました。 脇侍の四天王も平安期の貴重な作と云われています。 |
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62.波々伯部神社と日置の一里塚 | |
西新町95 | |
ほうかべ神社と読むらしい。 承徳2年(1098)、波々伯部村が京都の祇園社へ寄進して、荘園・波々伯部保となりました。 日置の一里塚は篠山藩では京街道の2番目なんだね。 |
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63.曽地山左近稲荷神社 | |
曽地中 | |
江戸両国の相撲大会で、8名の一行の一人「前頭曽地山左近」という力士名で土俵入りをし、大いに活躍をしました。 |
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64.洞中古墳とその周辺 | |
曽地中 | |
篠山盆地における横穴式石室をもつ代表的な古墳で、6世紀後半に造られたと考えられています。 天井に三枚の巨石を架け、篠山を代表する有力集団の墳墓と云われてます。 |
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65.太平山 清陰寺 | |
後川中204 | |
室町時代の応永三十年(1423)、洞光寺二世・澄昭良源和尚が創建します。 山門が銅板葺きですごく大きいよ。 昔は摂津への交通の要衝だったらしいよ。 |
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66.後川稲荷神社 | |
後川中204 | |
清陰寺の山門をくぐり、横に入ると稲荷神社があるよ。 摂関職二条家が厚く信仰し、村人のほか、杜氏や商人の参拝も多く、お供えの油が一斗(18リットル)鍋からいつも溢れ出ていたそうです。 |
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67.春日神社 | |
後川中 | |
丹波で最も古い荘園の後川荘(しつかわ)は、一時期藤原氏の領でもありました。 そこで、藤原氏の氏神・春日大社のご分霊をお祀りしたのです。 |
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68.春日神社 | |
後川上 | |
ここも藤原氏の氏神・春日大社を分霊しお祀りしています。 鳥居の額束に竜神春日社とあるのは、雨乞を祈る竜神信仰とのことです。 篠山には春日神社が多いよね。 |
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69.籠坊温泉 | |
籠坊 | |
篭坊温泉(かごぼうおんせん)と読むんだね。 寿永3年(1184)、一ノ谷合戦で敗れた平家の落武者が隠れ里にして、冷泉で傷を癒して、薬師堂を建てたと云われています。 |
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70.宝鏡山 洞光寺 | |
東本荘251 | |
南北朝時代の文中7年(1374)に天鷹祖祐大和尚が創建しました。(てんようそゆう) 足利将軍家や丹波守護細川氏の支持をうけました。 |
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71.雲部車塚古墳 (くもべくるまづか) | |
東本荘 | |
5世紀初頭(古墳時代中期)に築かれた前方後円墳です。 明治29年、内部に長持型石棺が納められ、朱が塗られている様子が明らかになりました。 |
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72.熊按神社 (くまあん) | |
春日江4 | |
全国唯一の名を持つ神社です。 正慶年間(1332-43)、奈良の春日神社が合祀され、いつのほどにか、熊野の野の草書体が書き間違われとも云われています。 |
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73.山陰道の小野駅跡 | |
小野新 | |
平安期に制定された、山陰道の駅家です。 丹波から隠岐の8ヶ国の山陰道には、30里(約16km)ごとに、37の駅が置かれていました。 |
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74.小野の宝篋印塔 | |
小野奥谷 | |
集落の東北の山麓に位置する宝篋印塔です。 少し山を上るとあります。 |
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75.安田大杉と福住本陣跡 | |
安田 | |
この杉は通称「甚七森(じんしちもり)といわれる杉の大樹です。 貴船神社の境内を覆いつくし、遠くから見ると森に見えるからだそうです。 野菜のお弁当を食べたかったね。 |
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76.福住の一里松 | |
福住 | |
篠山城築城に際し、西京街道に沿って大手門から、八上、波々伯部神社に次いで三里目の塚です。 |
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77.籾井城跡 | |
北新町48 | |
天正年間(1573-92)、八田城主籾井越中守教業(のりなり)が築きました。 波多野秀治に属し、何度も光秀を撃退させ「丹波の青鬼」と呼ばれていたんだね。 |
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78.桂峯山 如来寺と仁木城跡 | |
北新町 | |
室町時代から丹波仁木氏の居館があった所です。 如来寺は永保2年(1082)に創建されましたが、光秀の丹波攻めで焼失するのです。 |
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79.住吉神社 | |
川原 | |
平安時代の永保元年(1081)丹波国司・大江匡房(まさふさ)が堺の住吉神社から分霊を勧請しました。 神社の隣には「住之江の庭」があるよ。 |
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80.熊野新宮神社 | |
二之坪374 | |
大宝2年(702)、紀州熊野三山の本宮を小野奥谷、那智を貝田に、新宮を当宮に勧請しました。 毎年8月31日、9月1日の八朔祭の作り山は壮観だと云われています。 |
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81.亀井山蔵六寺 | |
貝田 | |
蔵六というのは、頭・尾・四足の6つを隠し持つことから亀の異称です。 ご本尊は聖観世音菩薩坐像で、鎌倉時代の作と云われています。 |
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82.細工所城跡 | |
南新町 | |
天文年間(1550頃)、荒木山城守氏香が築きました。 波多野秀治に属し、「丹波の荒木鬼」と恐れられていました。 しかし光秀の攻撃で落城するのです。 |
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83.霊輝山瑞祥寺と那須与市大権現 | |
井串 | |
天文年間(1532-55)、細工所城主となった荒木氏綱が戦乱で荒れた観音寺を廃し、当寺を創建します。 那須与市が丹波の地で病気になった際、観音寺に参詣し癒しました。 |
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84.左近神社 | |
草ノ上3 | |
祭神は、伊弉諾尊(イザナミノミコト)のお子の大山祇神(オオヤマツミノミコト)です。 武神・海神・山岳神・農業神として崇拝されています。 |
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85.清五郎稲荷神社と稲荷山古墳 | |
小田中100 | |
江戸両国の相撲春場所に八名らが勝ち続けました。 この神社は、その一人小田中清五郎を祀っています。 裏山山頂には稲荷山古墳があります。 |
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86.北条古墳 | |
細工所 | |
北方に祝山群集墳、西方に雲部車塚古墳(前方後円墳)、周囲に円墳が多数分布し、北条古墳が方形であることから、この地域の歴史解明の重要な鍵を持つと云われています。 | |
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90.櫛石窓神社 (くしいわまど) | |
福井1170 | |
天照大神の天の岩戸隠れの折、御門を守った櫛名窓命・豊石窓命の2神を祀っています。 背後の宮山には巨岩が3個あり、古代の信仰を伝えています。 |
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91.玄渓山豊林寺と豊林寺城跡 | |
福井 | |
法道仙人が開基で、朝廷の尊崇が厚く、陽成天皇の勅願所になったと云われています。 後ろには豊林寺城跡があり、大芋式部丞(おくもしきぶ)が応永年間(1394-1428)に築城し、代々大芋氏の拠点でした。 |
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92.小原の大日堂 | |
小原 | |
木造大日如来坐像は平安時代後期の作と云われています。 大日堂の前には高さ25m、周囲6.2mの大銀杏があります。 |
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93.春日神社 | |
藤坂 | |
古代から続く豪族・紀氏の先祖を祀る梅田七社の一つです。 白藤城主・脇屋尾張守義治が社殿を寄進しています。 |
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