[1] [2] [ふる里まちづくり] | |
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1.篠山城跡 | |
北新町 | |
慶長14年(1609)、家康が豊臣方の拠点である大坂城を包囲します。 そして西日本の諸大名を牽制するために築きました。 本丸からの街の風景は格別だよね。 |
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2.武家屋敷群 | |
西新町95 | |
篠山城の西側の道、御徒士町(おかちまち)、武家屋敷が沢山あるよ。 徒士とは、戦いのない平時は役人として藩に仕えていたんだね。 |
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3.青山歴史村 | |
北新町48 | |
明治21年、他から移築した大邸宅を「桂園舎」と名付けて青山家の別邸としました。 三棟の土蔵の中に貴重な江戸期の史料などを保管していたんだ。 中の壁にしてる木版がすごいんだ。 |
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4.南の馬出 | |
北新町 | |
お城の南西に位置するよ。 馬出とは、城の入口の守りを固めるために、外堀の外側に造られた曲輪です。 兵馬を集めて、一斉に攻撃する時に使われたんだよ。 |
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5.歴史の散歩道 | |
南新町 | |
南の馬出の一つ南側の東西の道だよ。 写真は堀のすぐ南の道だけど、もう一つ南側だね。 |
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6.河原町の町並み妻入商家群 | |
河原町 | |
お城の東の町です。 今回初めてきたけど、なぜ今まで来なかったのか不思議。 街中は城下と家並みの風景を楽しめる通りだよ。 |
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7.丹波古陶館 | |
河原町185 | |
河原町の通りにあるよ。 平安時代末期に丹波の国小野原荘に築窯されて以来、現在までその陶技が承け継がれているんだよ。 |
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8.能楽資料館 | |
河原町175 | |
ここも河原町の通りにある。 藩政時代から篠山地方に伝わる能楽関係の史料や能面など貴重な品々が展示されているよ。 |
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9.普門山 観音寺 | |
河原町165 | |
永禄5年(1562)、八上城主・波多野晴秀公が知足村の観音堂を城下に移築したのが始まりです。 | |
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10.開法山 真福寺 | |
河原町70 | |
河原町の通りにあります。 誓願寺の末寺で、古くは八上小多田にありましたが、篠山城築城後は現在の場所に移りました。 |
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11.王地山公園 | |
河原町・立町 | |
東には篠山川を隔てて八上城がある、 公園の山頂に上る、城跡を感じさせるね。 ささやま荘から、いいにおいがただよう、昼時を感じさせる。 |
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12.王地山平左衛門稲荷神社 負けきらい稲荷 |
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河原町 | |
伏見稲荷を感じさせる鳥居。 篠山藩主・青山忠裕が老中のころ、江戸の両国の相撲大会で負けてばかり。 ある年、王地山平左衛門ら8名が連勝し、あとで力士全員がお稲荷さんの名前だと分かったんだね。 |
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13.王地山陶器所 | |
河原町431 | |
江戸時代末期の1818年頃、篠山藩主・青山忠祐が王地山の西麓に陶器所を開設し、欽古堂亀祐を招きました。 一旦は廃窒となりますが、青磁を中心に当時の技法を再現しています。 |
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14.嶺松山 尊宝寺 | |
立町141 | |
永正3年(1506)、加竹法印重尊が、八上城外良(東北)の方向に建立します。 のち八上城主・松平康重の命で現在地に移しました。 山門は当時のものなのかな。 |
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15.清涼山 来迎寺 | |
下立町 | |
弘治年間、日置で開いた不断寺を八上城下に移し、阿弥陀寺と号したのがはじまりです。 波多野秀治が納めた仏像も安置されているよ。 |
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16.頼尊又四郎稲荷神社 | |
下立町 | |
松平又四郎が奔放無頼な生活のため、藩主松平康信は刺客に命じて暗殺するのです。 町民は若くして惨死した又四郎を篠山城の鬼門に祀ります。 江戸両国の相撲力士8名の中に、「頼尊又四郎」の名前で出ているのです。 |
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17.篠山歴史美術館 | |
呉服町53 | |
かつては篠山地方裁判所でした。 現存する木造建築の裁判所としては、我が国最古級のものだそうです。 とにかく、美しい建物ですね。 |
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18.丹波杜氏酒造記念館 | |
東新町1-5 | |
デカンショ節は「出稼ぎしよう」からきているとも云われ、元禄の頃、池田や伊丹に酒造りに行くことが盛んになります。 宝歴、天明の頃、各地で天災が続き、篠山藩は出稼ぎが原因とし、出稼ぎを制限する命令を出します。 市原清兵衛は直訴し、制限を緩和させたのです。 |
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19.清浄山 誓願寺 | |
魚屋町45 | |
波多野秀治が天正年間(1573-92)、覚山天誉として高城山の麓に創建されました。 桜門は、釘は一本も使われていないらしいよ。 |
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20.宝乗山 妙福寺 | |
西町41 | |
篠山城下の西の端にあり、歴代城主の菩提所に隣接しています。 お城の西側の市営駐車場はよく利用しているよ、すぐ近くなんだね。 |
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21.八上ふるさと館 | |
八上内567 | |
平成元年、ふれあい農園等管理施設整備事業により、農畜産の販路と消費の拡大を進める拠点として造られました。 丹波の山の芋・黒大豆や粟の販売やふるさと料理を味わえるらしいよ。 |
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22.重兵衛茶屋 | |
八上内 | |
京都から亀岡篠山を経由して但馬方面へ抜ける山陰街道が通過していたところです。 大名の参勤交代や一般や旅人の休泊所として使われていたんだね。 |
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23.高城市松稲荷神社 | |
八上内 | |
文政年間(1816-30)、毎年春と秋に江戸両国で相撲が催されていました。 篠山から高城市松が力士8名をつれ、全員勝ちました。 負け嫌いの青山忠裕が褒美をやろうとした時、皆領内のお稲荷さんの名前だったのです。 |
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24.八上城跡 | |
八上内 | |
八上城は室町時代後期(戦国時代)に波多野氏によって築城されました。 以来、光秀による丹波攻め等を経て、慶長十四年(1609)の篠山城築城に至るまでの間篠山を治める拠点となっていました。 |
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25.八上の一里塚 | |
八上内 | |
徳川秀忠が、江戸日本橋を基点にして、東海・東山・北陸三道の道路の両側に、一里ごとに榎や松を植えたのが始まりです。 篠山では京街道に沿って、一里毎に松を植えたのです。 |
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26.蓮法山 正覚寺 | |
般若寺 | |
八上城主・波多野秀治が奈良般若寺の僧を招き、大松山般若寺を建立します。 光秀の丹波攻めで焼失、その跡に正覚寺が創建されました。 |
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27.般若寺城跡 | |
般若寺482 | |
光秀が丹波攻めの時、般若寺城を築きました。 天正7年(1579)、戦いにより焼失し、その後に正覚寺が創建されました。 |
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28.土居の内 | |
大渕 | |
中世のころの国人武士とか名主等の居宅で、堀と土塁や林に囲まれています。 市内ではここしか残っていない遺構なんです。 |
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29.長徳寺とマリア観音 | |
大渕 | |
元亀、天正の頃(1570-90)、この地域にキリスト教が入りました。 マリア観音立像は、キリシタン禁制像後、「子安観音」あるいは「子育て観音」とカムフラージュしていました。 |
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30.神護山 太寧寺 | |
奥畑 | |
嘉吉3年(1443)細川持春が父満国の供養のために創建しました。 満国は足利義持より畑荘を与えられ、世を去ったのちは太寧寺殿と云われています。 |
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31.佐佐婆神社 | |
畑宮 | |
古代より神の祭祀場をササバと云われています。 もとは神奈備とされる八百里山の麓にあり、後鳥羽上皇のご分霊を隠岐から迎え、合祀されてます。 |
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32.八百里城跡 | |
瀬利 | |
丹波守護・細川満国、持春父子がこの山城を拠点にしていました。 のち、畑氏が城主の時、光秀の猛攻で落城するのです。 |
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35.春日神社 | |
黒岡75 | |
平安時代、奈良春日大社より、分霊を勧請し、日置の庄、黒岡の氏神としてお祀りしていました。 写真は能舞台で、13代・青山忠良が奉納しと云われています。 |
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36.特産館ささやま | |
黒岡70-1 | |
篠山はお城、城下町めぐり、寺社に美術館と観光する。 そして食事は、ぼたん鍋、篠山牛ステーキを食べる。そして土産は黒豆もいいね。 |
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37.村上周防守忠勝の墓所 | |
黒岡 | |
田んぼの中にポツンと見えるから、すぐに分かるよ。 村上義清の孫・忠勝は元和4年(1618)、家中騒動で丹波篠山へ配流になり、20数人と城中の一郭で生活し、若くして一生を終えるのです。 |
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38.玉水 | |
黒岡 | |
篠山築城の際、二ノ丸「積み上げ井戸」に向かっていた川床に、竹の束を並べて埋めたので水脈が通じ、今も涸れないと云われています。 |
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39.沢田山 小林寺 | |
沢田 | |
沢田城主の菩提寺で、天正年間(1573-91)に、小林平左衛門長治が、父近江守長任を開基として雑林庵を創立します。 のち沢田城に移築して小林寺と改称されています。 |
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40.沢田城跡 | |
沢田 | |
八上城主・波多野秀治の武将小林近江守長任の拠城跡です。 天正7年(1579)、小林修理進重範が明智光秀の攻撃を受け、落城するのです。 |
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41.玄奘三蔵法師聖骨塔 | |
沢田 | |
三蔵法師は、仏教中興の祖として尊敬され、六六四年に六十三歳で亡くなられます。 長安の都に葬られていましたが、日本軍が偶然に発掘し、世界中で9ケ所に分譲し、その内の一つです。 |
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42.沢田八幡神社 | |
沢田523 | |
沢田城主・小林氏が源氏の氏神八幡大神を勧請しました。 毎年10月には、当地方を開拓した祖神様を称し、大蛇に模した鱧(はも)を切る神事、奇祭「鱧切祭」が行われています。 |
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43.遺芳殿 | |
沢田 | |
昭和18年、忠霊殿として創建され、元神戸連隊区八市三郡の戦没英霊3万2千余り柱が祀られています。 遺族会館には軍旗の一部分と軍旗日誌が保管され、わが国の唯一だそうです。 |
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44.大賣神社 | |
寺内358 | |
室町時代後期の作と云われる雄雌の狛犬は砂岩で造られているよ。 |
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45.丹波与作誕生の地 | |
熊谷 | |
江戸時代のはじめ、丹波与作は篠山熊谷で生まれています。 デカンショ節に「丹波与作は馬追いなれど、今じゃお江戸で二本差し」 写真はゆるぎ地蔵です。 |
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47.石くど | |
熊谷 | |
新宮古墳のすぐ東かな。 石郭の巨石が露出しているんだ。 たしかに、飛鳥の石舞台を思い出すね。 |
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48.新宮古墳 | |
郡家 | |
神社の後の森が古墳だよ。 5世紀頃に築かれ、平地にあるものでは丹波最大です。 南にある小山と思っていた、神社に気をとられていたよ。 |
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49.歩兵第七十連隊跡 | |
東浜谷 | |
昭和20年から38年間にわたり、兵舎の背後にそびえる盃ケ岳の早駆けや、多紀連山を舞台とした山岳訓練により「丹波の鬼連隊」として全国にその名をとどろかせていました。 ここは産業高校かな。 |
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50.県立新たんば荘と丹波総合スポーツセンター | |
郡家 | |
諏訪神社のすぐ奥にあります。 スポーツセンター西北部、道路までの一帯は、歩兵第七十連隊の練兵場で、兵士たちが猛訓練を続けたところだそうです。 |
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