京都府 | 兵庫県 | ||
紫式部邸跡 (盧山寺) |
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京都市上京区北之辺町397 | ||
四辻善成の『河海抄(かかいしょう:源氏物語の注釈書)』に、紫式部邸の位置が「正親町以南、京極西つら、今東北院向也」とあることから、この地を紫式部邸宅跡と推定されました。 | ||
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平安京 内裏跡 | ||
京都市上京区下丸屋町512 | ||
紫宸殿(ししんでん)、仁寿殿(じじゅうでん)、清涼殿、弘徽殿(こきでん)、飛香舎(ひぎょうしゃ:藤壺)、淑景舎(しげいしゃ:桐壺)といった七殿五舎からなる後宮が存在し、「源氏物語」の中心舞台でした。 | ||
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平安京 大極殿跡 | ||
京都市上京区小山町905 | ||
平安宮で最も重要な施設で、 天皇の即位式のほか、正月に行われる朝賀や御斎会、外国使節の謁見など、国家の重要な行事がここで行われました。 | ||
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平安宮 内裏内郭回廊跡 (かいかくかいろう) |
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京都市上京区浄福寺通下立売上る東側 | ||
天皇の住居であった内裏は、大極殿のあった千本丸太町の東北方のこの地域に造られていました。 内裏は、厳重な二重宇の築地回廊で囲まれ、築地を挟んで内と外に回廊がめぐり、衛士(えし)らが厳重に警護をしていました。 |
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平安宮 内裏宜陽殿跡 (ぎようでん) |
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京都市上京区浄福寺通下立売上る東側 | ||
累代の御物を納める納殿で、「枕草子」には累代の楽器をほめて「それは宜陽殿の一の棚に置かれるもの」とあります。 「源氏物語」や「若菜上」で兵部卿宮が弾いた琴は宜陽殿の御物と云われています。 |
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平安宮 内裏弘徽殿跡 (こきでん) |
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京都市上京区土屋町通出水下る東入北側 | ||
朱雀院の母の弘徽殿女御が住み、女御は、光源氏の母の桐壺更衣(きりつぼのこうい)が帝の寵愛を受けているのを恨んで執拗な嫌がらせをして死に至らしめました。 | ||
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平安宮 内裏承香殿跡 (じょうきょうでん) |
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京都市上京区浄福寺町通出水下る西入北側 | ||
村上天皇女御の徽子(きし)女王(醍醐天皇孫、斎宮女御)は歌人として知られ六条御息所のモデルと言われ、「源氏物語」では朱雀院妃の承香殿女御が今上帝を生んでいます。 | ||
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平安宮 内裏昭陽舎跡 (しょうようしゃ) |
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京都市上京区浄福寺通出水下る東入北側 | ||
歴史上の梨壺女御として有名な人は村上中宮の藤原安子(あんし)です。梨壺の一郭に村上天皇の命で撰和歌所が置かれ、大中臣能宜、清原元輔(清少納言の父)らによって「後撰和歌集」が編纂されたので、編纂者たちを「梨壺の五人」と呼ばれました。 | ||
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内裏南限と建礼門跡 | ||
京都市上京区中務町 | ||
内裏外郭に設けられた正門で、規模は正面五間あり、内裏外郭門としては最大です。 | ||
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平安宮 一条院跡 | ||
京都市上京区大宮通中立売上る糸屋町 | ||
藤原道長・中宮彰子父娘の直盧(じきろ:宿泊所)が設けられました。中宮彰子に仕えた紫式部が日記に書いている内裏は、この一条院内裏で、一条天皇時代の文化サロンの舞台となりました。 | ||
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平安宮 大蔵省跡・大宿直跡 | ||
京都市上京区多門町 | ||
出納・収納・度量衝などを職務とし、諸国から貢進される調庸・銭ないし金銀以下の貢献物を正倉などの倉庫に納め、官人給与の禄やさまざまな財源に充てられました。 | ||
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平安宮 内裏清涼殿跡 (せいりょうでん) |
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京都市上京区下立売通千本東入ル田中町 | ||
帝は愛する桐壺更衣を亡くし、悲しみのあまり食事に手を付けなかった様子が描かれ「紅葉賀」では清涼殿の東庭で藤壺女御を前に、光源氏が頭中将とともに青海波(せいがいは)を舞う描写があります。 | ||
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平安宮 内裏紫宸殿跡 (ししんでん) |
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京都市上京区田中町下立売通浄福寺西467 | ||
中央の御帳台(みちょうだい)に天皇が出御して国家の重要な儀式が行われました。「源氏物語」では、東宮の元服を紫宸殿で行っており、光源氏の清涼殿に対して威儀の高さを暗示しています。 | ||
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大堰の邸 (おおいのやかた) |
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京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町 | ||
源氏物語の松風には明石上が母の尼君、娘とともに大堰に住む描写があります。 「大井(堰)川のわたりにありける」とあることから、この居所の推定地の一つとして、平安時代前期の桓武天皇の大堰離宮が挙げられます。 |
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大学寮跡 | ||
京都市中京区西ノ京北聖町 | ||
官吏子第の教育機関で、現在の国立大学に相当する施設です。 「源氏物語」では、光源氏が子の夕霧を大学寮へ通わせる描写があり、それも四位の特典を捨てて、地下の六位から出発させています。 | ||
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源融河原院跡 (みなもとのとおる) |
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京都市下京区都市町141-7 | ||
この付近には、嵯峨天皇皇子で『源氏物語』の主人公 光源氏のモデルの一人とされる平安時代前期の左大臣 源融(822−895)の邸宅 河原院がありました。 | ||
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平安宮 朝堂院大極殿跡 | ||
京都市中京区聚楽廻東町31-3 | ||
国政・儀式・年中行事などを行う宮殿や諸官衙(かんが)と天皇に関わる生活空間からなります。 大極殿において朱雀帝が斎宮(秋好中宮:あきこのむちゅうぐう)」に別れの御櫛を挿す描写があります。 |
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朱雀院跡 | ||
京都市中京区壬生花井町 | ||
「源氏物語」でも桐壺帝の父である一院と子の朱雀院(朱雀帝、光源氏の異母兄)は、朱雀院を御所としていました。 | ||
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羅城門跡 | ||
京都市南区唐橋羅城門54 | ||
平安京のメインストリートである朱雀大路の南端に設けられた、都の表玄関にあたる大門です。 藤原道長が法成寺造営のため、門の疎石を持ち帰った記述が「小右記(しょうゆうき)」にあります。 |
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宇治十帖(二) 椎本(しいがもと) |
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宇治市宇治乙方彼方神社(おちかた) | ||
春、花の頃、匂宮(におうのみや)は、初瀬詣の帰路、宇治の夕霧の山荘に中宿りし、お迎えの薫君(かおるのきみ)やお供の貴族たちと音楽に興じます。 | ||
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宇治十帖(四) 早蕨(さわらび) |
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宇治市宇治山田 宇治神社境内 |
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二月の上旬、中君は匂宮(におうのみや)の二条院へ迎えられ、行先の不安を感じつつも、幸福な日々が続きます。 | ||
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宇治十帖(六) 東屋 |
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宇治市京阪宇治駅東 東屋観音 |
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浮舟の母は、今は常陸介の後妻となっていました。 浮舟には、左近少将という求婚者がいましたが、少将は浮舟が介の実子でないと知ると、財力めあてで浮舟の義妹と結婚してしまいます。 |
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宇治十帖(七) 浮舟(うきふね) |
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宇治市莵道滋賀谷21 三室戸寺境内 |
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正月、中君のところに宇治から消息がありました。 浮舟のことを忘れられない匂宮(におうのみや)は、家臣に尋ねさせたところ、まさしく浮舟は、薫君にかくまわれて宇治にいることがわかります。 | ||
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