京都府の平安史跡 2
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京都府
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No.
史 跡
名 称
一口メモ
所在地
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平安宮 朝堂院大極殿跡
(だいごくでん)
平安宮正面の朱雀門を入ると応天門をもつ朝堂院(八省院)があり、この正殿が大極殿で、平安宮最大の建物です。
京都市中京区聚楽廻東町31-3
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平安京 朱雀門跡
朱雀門は、平安宮(大内裏)の南西大垣中央に設けられた宮城門で、朱雀大路に面する平安宮の正門であり、南は平安京の朱雀大路南端にあった羅生門、北は宮城内の応天門や大極殿と一直線に並んでいます。
京都市中京区西ノ京小堀町
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冷然院跡
弘仁年中(810-824)、嵯峨天皇の離宮として造営されたのがはじめで、林泉を前に数十の建物が建ち、天皇はしばしば行幸になって、華麗な詩歌の宴を行い、譲位後は、後院(上皇の御所)として使用されました。
京都市中京区竹屋町通堀川西入(二条城北側)
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朱雀院跡
(すざくいん)
朱雀大路の西に接し、三条から四条の間に八町域の平安京内最大の面積を誇る累代の後院(上皇の御所)です。
京都市中京区壬生花井町
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平安京 神泉苑東端線
(しんせんえんとうたんせん)
二条城の南の道沿い、東西端に石碑があり、東端は「大宮通り」あたりだね。
京都市営地下鉄東西線の工事の際に東端が判明したんだね。
京都市中京区二条城町
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平安京 神泉苑西端線
(しんせんえんせいたんせん)
西端の石碑は「神泉通り」かと思えば、更に西へ100mぐらいの位置にあります。
当時の神泉苑の東西が240mと云われるから、現在の「神泉通り」が真ん中あたりだね。
京都市中京区二条城町
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大学寮跡
平安宮の南にあった四町(252m四方)規模の官吏子第の教育機関で、現在の国立大学に相当する施設です。
京都市中京区西ノ京北聖町
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勧学院址
勧学院は、弘仁12年(821)、藤原冬嗣により創建され、貞観14年(872)以前に大学別曹として公認されました。
京都市中京区西ノ京勧学院町
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弘文院址
延暦年間(782-806)末期から大同年間初頭(大同元年は806年)、和気清麻呂の子・和気広世が式部少輔と大学別当(大学頭)を兼務し、大学寮の南側にあった私邸を弘文院として設立しました。
京都市中京区御池通千本東入北側
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奨学院址
奨学院は元慶5年(881)、在原行平が創建し、皇親、諸王、皇族出身の源氏・平氏・在原氏などの寄宿舎になっていました。
京都市中京区西ノ京南聖町18-20
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東三条殿址碑
この辺りを中心として二条通、御池通、新町通、西洞院通に囲まれた東西約130m、南北約280mに及ぶ細長い地域をいい、平安時代に隆盛を極めた藤原氏の邸がありました。
京都市中京区押小路通釜座西北角町
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二条殿御池跡
和歌連歌で著名な公家の太政大臣・二条良基の邸宅の跡です。
京都市中京区室町通押小路下る東側
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烏丸池遺蹟
(からすまおいけ)
この地点は、平安京では左京三条三坊十四町と十五町の間の三条坊門小路にあたります。
京都市中京区烏丸通御池東北角
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四条坊門小路跡
(しじょうぼうもんこうじあと)
JR山陰本線「二条駅」の南にある三条通と阪急京都線「大宮駅」を斜めに走る幅広の道路(後院通り)の真ん中あたりだね。
京都府中京警察署の少し西の「蛸薬師通り(たこやくしどおり)」の信号がある場所にあるよ。
京都市中京区壬生馬場町
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平安京朱雀大路
(すざくおおじ)
平安宮の朱雀門から南へ羅城門まで、平安京の中心を南北約4kmにわたって走る重要大路です。
京都市下京区中堂寺坊城町
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東鴻臚館
(ひがしこうろかん)
鴻臚館は外交や海外交易の施設です。
京の中央を南北に朱雀大路が貫き、その七条以北の東西にふたつの鴻臚館が設けられていましたが、この島原付近は東鴻臚館址にあたります。
京都市下京区西新屋敷下之町6-2
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源融河原院跡
(みなもとのとおる)
光源氏のモデルの一人とされる平安時代前期の左大臣 源融(822−895)の邸宅 河原院がありました。
京都市下京区都市町141-7
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粟田口
粟田口とは、三条通(旧東海道)の白川橋から東、蹴上付近までの広範囲に渡る地名です。
東国との交通の要地あるいは軍事上の要衝にあたることから、やがて粟田口(三条口)と呼ばれ、京都七口の一つにも数えられました。
京都市東山区・左京区
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北座跡
寛文10年(1670)以降、鴨川の両岸に新堤が築かれたことにより、鴨河原の風景は一変し、広大な芝居街と茶屋町の出現となりました。
当時、東岸の四条通をはさんで、計6軒の芝居小屋がありました。
京都市東山区常盤町149-1
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羅城門
平安京のメインストリートである朱雀大路の南端に設けられた、都の表玄関にあたる大門で、この門を境に京の内外を分けていました。
京都市南区唐橋羅城門54
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