河井城、小堀城、堀井城

兵庫県小野市新部町、河合中町、河合西町

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国道175号線の「旭丘中交差点」を西へ、「新大河橋」を超えて、JR加古川線の「河合西駅」の北側にある河合城、小堀城、堀井城を探索しました。

小野の街は文化財が沢山あり、とても好きな街です。 地図と風景の中から、まるで宝探しをしているかのように探索が楽しめるのです。

 1回目 (河合城、小堀城、堀井城)
 2回目 (阿形城、来住城、岡城、赤松氏館)
 3回目 (池尻城、下司館、垂井城)
 4回目 (葉多城、敷地陣屋、鯰坂城)
 5回目 (曽我井城、八王子神社城、島村城、久保木城)
 6回目 (小田城、豊地城、屋口城)

「河合城(かわい)」 
  
「河合西駅」から北へ200m、東へ100mのところの田んぼの道沿いにあります。

別名「堀殿城」ともよばれ、東西400m、南北300mの大城郭でしたが、昭和50年の整備事業でほとんどが消失しました。

現在の養鶏場あたりが主郭で「源氏屋敷」とよばれ、土塁や堀がめぐらされていました。  
  
河合城は赤松一族・上月氏の居城です。 赤松円心から四代前の佐用郡長谷高山城主・山田則景の子景盛が上月の姓を名乗り、上月城を築きました。

この上月氏が加東郡の所領を持ち、赤松氏の東播磨の拠点としてこの地を守りました。

河合城の上月氏は聖範、義景、景氏と続きます。 この景氏の時に赤松満祐が京都西洞院の自邸で将軍・足利義教を殺害し、義教の首を持って播磨に帰る途中で寄ったのがこの河合城なのです。(嘉吉の乱)

赤松満祐は書写の坂本城で幕府の追討軍を迎え、その後は揖保郡・城山城で籠城するのですが、山名氏や細川氏に囲まれついに一族ともに自害するのです。

  
「成国寺」

河合城の南西方向100mのところにあります。

赤松満祐が足利義教の首を持って来た時、加東郡東条町の安国寺で大法要を行う準備した寺といわれています。

近くまで行けなかったので、遠くの道からの写真です。 本当にさりげない場所にすごいお寺があるのです。

三和町の「万福寺」近くには「首洗いの井戸」があったらしいよ。
   
   
「明善寺の石棺」

河合城から東へ200mぐらいにあります。

河合城主の菩提寺といわれる明善寺は、赤松円心の子・則祐が開祖と伝えられ、境内には古墳時代の家型石棺があります。

この時は法事があったらしく、沢山の人がいました。 じゃまにならないように、さっと写真だけ。
   
   

「小堀城(こほり)」

河合城から北東150mあたりの少し太い道沿いにあります。

地元では「コッポリ城」と呼ばれ、河合城の支城でした。 150mの方形で大規模な城郭で、この竹藪のところが中心部です。

ここの竹を5,6本かついだ土地の女性の方に聞くと、中に入ってもいいかとたずねると「市の方ですか」と聞かれました。

最近、市の調査の方がよく来られるそうで、真面目な姿を見て勘違いされたのかな。
  
 
  
赤松一族では別所氏、佐用氏、宇野氏、小寺氏が四天王といわれ、赤松円心から後で分かれた一族を「赤松三十六家」といわれています。

この一族のひとり、光枝三郎正頼が初代小堀城主です。

天正年間(1573〜1592)、三木合戦に参加した三枝治吉は、この小堀城に火を放ち、家財を整理して三木城へ入りました。

三木市の「竹中半兵衛の墓」がある平井山での合戦で討死したのです。 
  
 「小堀城の土塁」

許可をいただいて中に入りました。 中には高さ2mの土塁が80mにわたってます。

土塁を越えて反対側に行きたかったけど、竹が密集していて行けそうになかった。 でも感激。
  
 「東の土塁」

実は小堀城跡はそこだけではないのです。 と教えてくれました。
ここは道の東側、田んぼのあぜ道に見えるけど、お城の土塁跡なんだよ。

竹をかついだやさしい女性の方、ありがとう。
  

「太閤渡し」

小堀城からすぐ東の川土手にあります。

天正六年(1578)、織田信長から播磨平定を命じられた羽柴秀吉が三木城別所氏を攻める途中、ここから「いかだ」で軍勢を渡したことから始まります。

この奥が「新宮神社」で、小堀城主が和歌山県の熊野神社から分社したと伝わっています。  
   
  
 「河合西廃寺」

小堀城から西へ、なんとかして線路を渡り、線路の西に走る「349号線(市場滝野線)」に出ます。 北へ走り河合西郵便局の北辺りにあります。

鳥居の前に池が存在していたことから、当時は宇治平等院のような庭園があったと考えられています。

発掘調査でも瓦などの模様から平安時代に建てられたことが分かりました。
 
  

「堀井城(ほりい)」

河合西廃寺のすぐ東北側にあります。

ここは地元では「斯波屋敷」と呼ばれ、東西90m、南北120mで周囲には幅9mの堀でめぐらされています。

河合西廃寺で掃除をしていた方教えてくれました。 「小さい頃にはお屋敷があってよく遊んでいた」と。
   
  
承久二年(1220)、赤松円心から三代前の家範の兄弟である赤松景能が築きました。

嘉吉の乱で赤松一族は滅亡し一時は使用されなかったのですが、享禄三年(1530)、堀井兵部長満によって再興されました。 
  
 「堀井城跡の中」

南側に一つだけ橋が架かって、そこからしか入ることはできません。 少しだけ中を見てみました。 屋敷の門石があるよ。

この石でできた板は、橋だったのかな。
 

  
「慶徳寺のカヤの木」

堀井城から東へ線路を渡ってすぐ北側だよ。

慶徳寺の本堂前に大きな木があります。 このお寺を開いた見芳和尚の手植えといわれ、毎年秋には参詣する人に実が配られてるそうです。

この左側には「石造五輪塔」もあるからね、忘れないように。 
 
  
 「石造五輪塔」

慶徳寺から北へ300mぐらいかな、「青野ケ原駅」より北側で線路の真東沿いだよ。

室町時代、この地は土豪陰山氏が治めていました。 陰山氏との関連だとも考えられています。

周りに囲いがあって、入口の石門裏側には「祈家内安全 陰山一族」と書かれています。 ささやかな感動。
  
   
「あごなし地蔵」

「青野ケ原駅」から更に北へ300m、線路の東側の道沿いだよ。

地元では「隠岐の国のあごなしj地蔵」と呼ばれ、元は違う場所にありました。「世の中へ出て、困っている人をなおしてあげたい」といったことから、この街道へと移されたのです。

小野探索はあと五回は必要だね。 地図と風景、ゆっくりと歩く方が似合う街なんだよね。
  
 

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