京都府の幕末史跡 1

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No.
史 跡
名 称
一口メモ 
所在地
 1 堺町御門 文久3年(1863)、孝明天皇、会津・薩摩藩らは、三条実美ら公卿七人と長州藩を京都から追放する政変を起こした際、長州藩が御門に集結した時、門は会津・薩摩藩兵で固められ、門内に入ることは許されませんでした。 京都市上京区京都御苑
    
 2 学習院跡 安永8年(1779)、光格天皇は学問を大切にし、公家の教育振興に取り組みました。
次の仁孝天皇は幕府から学習所の設置が認められ孝明天皇在位中の弘化4年(1847)、この地に開講します。
京都市上京区京都御苑
    
 3 九条邸跡 九条家は、五摂家の一つで、平安後期以降多くの人が朝廷の重要職である摂政や関白に就きました。 京都市上京区京都御苑内
    
4 閑院宮邸跡 閑院宮家は、伏見宮、桂宮、有栖川宮家と並ぶ四天王家のひとつで、東山天皇の第六皇子・直仁親王を始祖として宝永7年(1710)に創立されました。 京都市上京区京都御苑
    
 5 鷹司邸跡 鎌倉時代中頃、近衛家からわかれた五摂家の一つです。
元治元年(1864)、禁門の変では、長州藩士が邸内に入り、屋敷に放なされた火は京都大火につながりました。
京都市上京区京都御苑
    
6  凝華洞跡
(ぎょうかどう)
元治元年(1864)、禁門の変の頃、京都守護職に任じられていた会津藩主・松平容保は病を患い、朝廷の配慮もあり、ここを仮本陣にしました。 京都市上京区京都御苑438-1
    
7 清水谷家の椋 この大きなムクの木は、このあたりが清水谷家という公家の屋敷であったことから「清水谷家の椋(しみずだにけのむく)」と呼ばれています。
来島又兵衛がこの木の付近で討死したとも云われています。
京都市上京区京都御苑
    
 8 貽範碑(いはんひ) 伏見宮邦家親王の第4王子・久邇宮朝彦親王(くにのみや あさひこしんのう)が、元治元年(1864)、池田屋騒動が起こった年に京都御所の旧恭礼門院の女院御所跡地に屋敷が与えられました。 京都市上京区京都御苑
    
9  蛤御門 元治元年(1864)、この門の周辺で長州藩と御所の護衛に当たっていた会津藩・薩摩藩・桑名藩との間で激戦が行われました。 京都市上京区元浄花院町龍前町605
    
10  薩摩藩邸
(二本松屋敷)
文久2年(1862)9月、薩摩藩が相国寺から土地を借りうけ、京都に新たな藩邸を造営しました。
明治時代になると、京の薩摩藩邸は、民間に売却され、新島襄が購入するのです。
京都市上京区岡松町
    
 11 水戸藩邸跡 水戸藩は、徳川家康の子・頼房を初代藩主とする御三家の一つです。
二代藩主・徳川光圀は「大日本史」編集の事業をはじめ、幕末まで継続されました。
京都市上京区鷹司町
    
 12  梨木神社 ご祭神は三条実萬(さねつむ)と三条実美(さねとみ)です。
実萬公は王政復古の大義を唱えて、実美公は攘夷決行の急進派の中心人物として活躍しました。
京都市上京区染殿町680
    
 13  大久保利通邸 明治2年(1869)、明治政府の中央集権体制の確立を行い、大蔵卿に就任し、岩倉使節団の副使として外遊します。
明治11年(1878)5月14日、馬車で皇居へ向かう途中、6人の不平士族により命を奪われたのです。
京都市上京区扇町(寺町通)281
    
 14 清浄華院 幕末には、御所警備を担当した会津藩・薩摩藩・徳島藩・熊本藩の宿所の一つとなり、会津藩主で京都守護職となった松平容保が池田屋事件の寸前まで半年間過ごしました。 京都市上京区北之辺町395
      
15  会津藩殉難者墓地 ここは金戒光明寺は会津藩主の松平容保が京都守護の本陣を置いたところです。
山上に三百坪の墓地が整備され、文久2年から 慶応3年までに二百三十七霊をかぞえ、鳥羽伏見の戦いの百十五霊を合祀しました。
京都市左京区黒谷町
金戒光明寺
  
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