京都府 | 大阪府 | 兵庫県 | 奈良県 |
滋賀県 | 岡山県 | 広島県 | 岐阜県 |
難波京 | ||
大阪市中央区法円坂 | ||
大化の改新の後、三十六代・孝徳天皇が難波に遷都したのが、前期難波宮です。 第四十五代・聖武天皇が、難波宮を「副都」として営まれたのが後期難波宮です。 |
||
|
||
つるのはし跡 | ||
大阪市生野区桃谷3-17 | ||
日本書紀の仁徳天皇14年の条に、「冬11月、猪甘の津に橋わたす。すなわちその処を号け(なづけ)て、小橋という」と記されていて、これが我が国での架橋の記録として最も古いものです。 | ||
|
||
稲 城 | ||
八尾市南木の本7丁目 | ||
聖徳太子が守屋の館のあった阿都の桑市を攻めた時、物部守屋は兵を集めて、この地に稲城を構え抗戦したと云われています。 | ||
|
||
樟本神社 | ||
八尾市木の本1丁目59 | ||
この付近一帯は物部氏の住地でした。 蘇我馬子や聖徳太子らが物部守屋を攻めた時、鏑矢が守屋の胸に当たり、ここの池で首を洗ったそうです。(守屋首洗池) |
||
|
||
大聖勝軍寺 | ||
八尾市太子堂3丁目3 | ||
聖徳太子は物部守屋を滅ぼすにあたり、四天王に祈願し、その加護により戦に勝ったので、この寺を建てました。 ここにも守屋首洗池があります。 |
||
|
||
鏑矢塚 | ||
八尾市南太子堂3丁目1 | ||
物部守屋を討った鏑矢を埋めた塚です。 |
||
|
||
弓代塚 | ||
八尾市南太子堂3丁目4 | ||
物部守屋を討った弓を埋めた塚です。 | ||
|
||
物部守屋大連墳 | ||
八尾市太子堂 | ||
物部守屋のお墓です。 | ||
|
||
跡部神社 | ||
八尾市亀井町2丁目4-5 | ||
物部氏一族の阿刀氏の祖神を祀ったと云われています。 | ||
|
||
八尾神社 | ||
八尾市本町7丁目7-27 | ||
この地を本拠にした物部氏の一族・粟栖連がその祖神を祀ったとされています。 | ||
|
||
由義宮旧址碑 | ||
八尾市八尾木北5丁目172 | ||
第48第・称徳天皇(孝謙天皇と重祚)と道鏡による政権運営が続き、神護景雲4年(770)には道鏡の故郷である弓削寺に行幸し、道鏡は太政大臣禅師に任じられ、由義宮が建てられたのです。 | ||
|
||
丹比柴籬宮跡 (たじひのしばかきのみや) |
||
松原市上田7-12 | ||
柴籬神社(しばがき)は、第18代反正天皇(瑞歯別命:みずはわけのみこと)、菅原道真、依羅宿禰(よさみのすくね)を祭神として祀られています。 この付近は反正天皇の皇居、丹比柴籬宮跡と云われています。 |
||
|
||
将軍塚 | ||
茨木市西安威2丁目1-1 | ||
平安中期の頃から、「藤原鎌足の墓処は、初め摂津の阿威(あい)にあったが、後に大和多武峯(やまととうのみね)に改葬された」との説があり、それが江戸時代になって、この塚をあてるようになりました。 | ||
|
||
桜井駅跡 | ||
三島郡島本町桜井1丁目 | ||
奈良時代のはじめ、京から西国に向かう道筋に設置された駅の一つに「摂津国嶋上郡大原駅」が続日本紀に記されており、これが桜井駅と云われています。 | ||
|
||