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阿部仲麻呂 望郷の思い | ||
奈良市春日野町160-7春日大社 | ||
遣唐留学生に選ばれた阿部仲麻呂(17歳)たちは、春日の神地で壮行神事を受けて出発しました。 53歳の時ようやく一時帰国を認められ、蘇州出港前夜停泊中の船内で詠んだ歌です。 |
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出現石 | ||
奈良市春日野町160-7春日大社 | ||
春日大社の南門前には「出現石」があります。 この出現石から若宮方面に20mほど先、布生橋の手前「如意石(さぐり石)」まで、目をつむってたどり着くと、願いが叶うと云われています。 |
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太子道(筋違道すじかいみち) | ||
奈良 | ||
この道は、飛鳥から斑鳩へのほぼ直線の斜行道路で、藤原京から平城京にむかう下ツ道に対して、道が斜めになっているところから「筋違道(すじかいみち)」と呼ばれています。 | ||
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訳語田幸玉宮 (おさださちたまんみや) |
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桜井市戒重557 | ||
第30代・敏達天皇が営んだ宮です。 最初は百済大井宮を営んでいましたが、占いによりこの地に宮を移しています。 |
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聖徳皇太子御誕生所 | ||
高市郡明日香村大字橘 | ||
厩戸皇子(うまやどのおうじ)は、用明天皇と蘇我稲目の孫娘・穴穂部間人皇女との間に生まれた第二皇子です。 ここ橘寺で出生しています。 |
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飛鳥板蓋宮 | ||
高市郡明日香村岡 | ||
飛鳥京の中心にあった飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)は、第35代・皇極天皇、第37代・斉明天皇が営んだ皇居と云われています。 中大兄皇子らが宮中で蘇我入鹿を討ち、翌日には父・蝦夷も自害します(乙巳の変)。 |
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飛鳥寺 | ||
高市郡明日香村飛鳥68 | ||
用明天皇2年(587)、蘇我馬子が仏教をめぐって物部守屋と対立、勝利を祈願して建立しました。 日本で最初の仏教寺院で、蘇我氏の氏寺となっています。 |
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石舞台古墳 | ||
高市郡明日香村島庄254 | ||
蘇我馬子のお墓と云われています、復元すると一辺が80mぐらいの大きさらしい。 推古天皇34年(626)、馬子は世を去り、埋葬されたのが石舞台と云われています。 |
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藤原京 | ||
橿原市高殿町 | ||
藤原京は、持統天皇8年(694)から、和銅3年(710)まで、持統・文武・元明天皇三代にわたる都です。 | ||
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入鹿神社 | ||
橿原市小綱町335 | ||
祭神は、素戔嗚尊(スサノオノミコト)と蘇我入鹿の両柱を合祀しています。 | ||
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飽波宮跡 (飽波神社) |
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生駒郡安堵町東安堵1379 | ||
飽波神社(あくなみ)は聖徳太子の飽波宮跡と云われています。 祭神は素戔嗚命(すさのおのみこと)です。 |
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御幸石 (太子腰かけ石) |
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生駒郡安堵町東安堵1379 | ||
聖徳太子が通われた、斑鳩宮と飛鳥の小墾田宮(おはりだのみや)を結ぶ道を太子道と呼びます。 その道沿いに飽波神社があり、境内には太子腰掛け石があります。 |
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長屋王墓 | ||
生駒郡平群町梨本字前75 | ||
神亀6年(729)2月10日、皇位継承にからみ、藤原不比等の4人の息子(藤原四兄弟)に謀反の疑いで館を囲まれ、夫妻と4人の皇子が自殺に追い込まれます。 | ||
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朝護孫子寺 | ||
生駒郡平群町信貴山2280-1 | ||
用明天皇2年(587)、馬子は聖徳太子らと守屋を攻め滅ぼし、のち自ら刻んだ毘沙門天を本尊にし当寺を創建しました。 | ||
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