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鶴岡八幡宮 | ||
鎌倉市雪ノ下2-1-31 | ||
治承4年(1180)、源頼朝公は源氏再興の旗を挙げ、父祖由縁の地鎌倉に入ると、まず由比郷の八幡宮を遥拝し、現在の地である小林郷北山に奉遷し、京に於ける内裏に相当する位置に宮の整備に務めました。 | ||
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段葛 (だんかずら) |
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鎌倉市雪ノ下2-1-31 | ||
低湿地に石を置いて整えたもので、一ノ鳥居よ八幡宮までの一直線の参道を若宮大路と称し、京都の内裏に至る朱雀大路にならって造られたと云われています。 | ||
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旗上弁財天 | ||
鎌倉市雪ノ下1-8-31 | ||
寿永元年(1182)大庭景義に命じて境内の東西に池を掘らせ、東の池(源氏池)には三島を配し、三は産なりと祝い、西の池(平家池)には四島を造り四は死なりと平家滅亡を祈りました。 | ||
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白旗神社 | ||
鎌倉市西御門2-1-24 | ||
祭神は源頼朝公で、もと源頼朝公居館(幕府)の北隅で持仏堂がありました。 正治元年(1199)一月十三日、頼朝公が亡くなるとここに葬りました。 |
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源頼朝の墓 | ||
鎌倉市西御門2-5 | ||
正治元年(1199)に53歳で没すると、自身の持仏堂であった法華堂に葬られ、法華堂は頼朝の墓所として厚く信仰されました。 | ||
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法華堂跡 | ||
鎌倉市西御門2-5 | ||
鎌倉幕府第2代執権の北条義時の法華堂(墳墓堂)が建っていた跡です。 義時は貞応3年(1224)に62歳で没し、頼朝の法華堂の東の山上に墳墓の地とし、そこに新法華堂(義時の法華堂)を建てたことが記されています。 |
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毛利季光 (すえみつ)の墓 |
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鎌倉市西御門2-5 | ||
大江広元の四男にあたり、長州藩主毛利氏の祖となる人物です。 北条氏と三浦氏が争った宝治合戦(1247)では、三浦氏につき、敗れた三浦一族とともに法華堂で自刃したといわれています。 |
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大江広元の墓 | ||
鎌倉市西御門2-5 | ||
広元は幕府の政所初代別当を務め、頼朝の側近として幕府創設に貢献しました。 公家出身の広元は、鎌倉と京都の貴族との間の交渉で活躍し、頼朝の死後も北条政子や二代目執権・北条義時を支えました。 |
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島津忠久の墓 | ||
鎌倉市西御門2-5 | ||
幕府の御家人で、薩摩藩主・島津氏の祖に当たります。 忠久の祖母が頼朝の乳母だった縁から頼朝に重用され、平家追討などで活躍し、恩賞として島津荘の惣地頭に任じられました。 |
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盛久頚座 (もりひさくびざ) |
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鎌倉市長谷1-7-2 | ||
平家の武将・平盛久は、鎌倉に送られ、この由比ガ浜の地で首を切られることになりました。 観世音菩薩を深く信仰していたので、頼朝は盛久を招き助命されるのです。 |
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鎌倉大仏 | ||
鎌倉市長谷4-2-28 | ||
高徳院には日本三大仏である鎌倉大仏があります。 大仏像は阿弥陀仏で、源頼朝の侍女であったといわれる稲多野局(いだののつぼね)が発起して造られました。 |
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