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厳島神社 |
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京都市上京区京都御苑 | ||
平清盛が安芸の国の厳島大神を崇敬のあまり、摂津の国兵庫築島(神戸市兵庫区永沢町)に一社を設け、この大神を勧請し鎮祭されました。清盛の母とされる祇園女御(ぎおんのにょうご)が合祀されています。 | ||
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琴きき橋 | ||
京都市右京区嵯峨天龍寺造路町 | ||
小督局は高倉天皇の寵愛を一身に集めていました。 しかし、平清盛の娘・徳子(建礼門院)が、中宮であったため平家の圧迫をおそれて、この地嵯峨野に身を隠します。 |
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琴聴橋 | ||
京都市右京区嵯峨天龍寺造路町 | ||
小督局は高倉天皇の寵愛を一身に集めていました。 しかし、平清盛の娘・徳子(建礼門院)が、中宮であったため平家の圧迫をおそれて、この地嵯峨野に身を隠します。 |
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小督塚 | ||
京都市右京区嵯峨天龍寺造路町 | ||
小督局が嵯峨野に身を隠した時の仮住居は、「小督塚」の辺りであったと云われています。 | ||
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謡曲「経正」 | ||
京都市右京区御室大内33 仁和寺 |
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謡曲「経正」は、生前琵琶に堪能であった平経正の妄執(もうしゅう:悟りきれず、心の迷いによってあくまで離さないでいる執念)を描いた修羅場です。 | ||
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熊谷よろいかけの松 | ||
京都市左京区黒谷町121 | ||
寿永3年(1184)、一ノ谷の戦いで平敦盛と一騎打ちを行い、敦盛の首を取った直実は、建久4年(1193)に黒谷の法然上人を訪ね、方丈裏の池にて鎧を洗い、この松の木に鎧を掛けて出家したと云われています。 | ||
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三條東殿遺址 | ||
京都市中京区姉小路通烏丸東入南側 | ||
白河法皇はこの地を院の御所とされます。 のち鳥羽上皇、後白河法皇も御所とされました。 |
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高倉宮跡 | ||
京都市中京区東洞院通姉小路下る曇華院前町 | ||
平安京の左京三条四坊四町にあたり、平安時代末、後白河法皇の皇子・以仁王の御所高倉宮がありました。 |
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三条西殿・ 三条大路跡 |
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京都市中京区御倉町85-1、烏丸通三条西入ル北側 | ||
十二町は白河法皇、鳥羽上皇、待賢門院の御所として、院政時代の政治の中心となった「三条西殿」の遺跡として知られています。 |
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三條烏丸御所跡 | ||
京都市中京区三条通烏丸西入南側 | ||
藤原実能(さねよし)から鳥羽法皇に献上され三条南殿三条烏丸御所となりました。 |
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高松殿址 | ||
京都市中京区津軽町釜座東入津軽町790 | ||
後白河天皇が当所で即位し、高松内裏とも云われます。保元の乱(1156)には、崇徳上皇方の白河北殿に対し、後白河天皇の本拠地となり、源義朝や平清盛らの軍勢がここに参集し、白河の地へ攻め込みました。 |
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神泉苑 | ||
京都市中京区御池通神泉苑町東入ル門前町166 | ||
後白河法皇が神泉苑に百人の白拍子を召して、雨乞いをさせました。 最後に静御前が舞うとたちまちに雨が降り、 静御前の舞を見初めた義経は静御前を寵愛するようになるのです。 |
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武信稲荷神社 | ||
京都市中京区三条通神泉苑町西入下ル今新在家西町38 | ||
境内のエノキは、平重盛が安芸宮島の厳島神社から苗木を移したという云われ、神木とされています。 龍馬が身を隠した時、「龍」の字を掘って、生きている伝言にしたと云われています。 |
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染殿院 | ||
京都市中京区新四条上中之町562 | ||
第55代・文徳天皇の后・藤原明子は子宝に恵まれず、「四条の寺院にご利益のある地蔵菩薩が安置されている」と聞き祈願をします。 願いがかない産まれたのが惟仁親王、のちの第56代・清和天皇です。 |
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辨慶石 | ||
京都市中京区三条通麩屋町東入ル弁慶石町 | ||
この石は弁慶が熱愛したと云われています。 | ||
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鵺池と鵺大明神 | ||
京都市上京区主税町964 | ||
怪しい鳥の鳴き声がし、近衛天皇が非常に怯えられ、弓の名手である源頼政が射落とした怪鳥は、頭は猿、胴は狸、手足は虎、尾は蛇という姿の鵺でした。その時、血のついた鏃(やじり)を洗ったのが、鵺池と云われています。 | ||
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若宮八幡宮 | ||
京都市下京区若宮通花屋町上る | ||
天喜5年(1058)、源頼義が御冷泉天皇の勅を奉じて文武の神、治山治水の神、長寿の神として創建されました。 頼義、義家の館、義経が居を構えるなど、長く源氏の邸宅があったと云われています。 |
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新玉津島神社 | ||
京都市下京区玉津島町 | ||
歌人として名高い藤原俊成の邸宅地がありました。木曾義仲が京に攻め入り、平家一門は都落ちした時、平忠度は、「一首なりとも選んでほしい」と自分の秀歌の巻物を献じました。 | ||
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五條天神社 | ||
京都市下京区天神前町351 | ||
牛若丸と弁慶の最初の出会いが当社の近辺だったと云われています。 五條天神に丑刻詣(うしのこくまい)をした弁慶が、笛を吹きつつ歩く牛若を見つけ、争いが始まります。敗北した弁慶が義経の家来となるのは有名な話です。 |
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冠者殿社 | ||
京都市下京区貞安前之町609 | ||
文治元年(1185)、源頼朝と義経は対立し、頼朝が義経を暗殺するために使わした刺客・土佐坊昌俊(とさのぼう しょうしゅん)が祀られています。 | ||
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浄教寺 | ||
京都市下京区寺町通四条下る東側貞安前之町620 | ||
浄教寺は重盛が小松谷の邸宅内に建立し、その境内には大きな「内大臣平重盛公」の石碑があります。 | ||
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平等寺 (因幡薬師) |
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京都市下京区因幡堂町728 | ||
長徳3年(997)、因幡国司・橘行平が帰京の途中、因幡賀留津の海中から引き揚げた薬師如来像を祀っています。 高倉天皇の寵愛を受けた小督(こごう)ゆかりの琴と硯筺、小督の髪を織り込んだ光明真言の掛け軸が残されています。 |
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神明神社 | ||
京都市下京区神明町 | ||
近衛天皇がしばしば皇居としたと伝わる藤原忠通の屋敷跡です。 虎の「鵺(ぬえ)」という怪鳥が毎夜、空に現れ都を騒がせ、源頼政が退治しました。 |
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俊成社 | ||
京都市下京区小路通五条下ル本塩竈町529 | ||
当代の歌人といわれた藤原俊成卿を祀っています。木曾義仲が延暦寺に入った時、平忠度は鳥羽のあたりまで落ちていましたが、どうしても自らの秀歌から一首でも、この「千載和歌集」に採歌してほしいとの思いで、俊成卿の家まで引き返します。 | ||
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住吉神社 | ||
京都市下京区醒ヶ井通高辻下る住吉町481 | ||
保元2年(1157)、後白河天皇の勅旨により、和歌の守護神として摂津国住吉大社より、平安京五条烏丸の藤原俊成卿の邸宅に勧請された新住吉社が始まりです。 | ||
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左女牛井之跡碑 | ||
京都市下京区堀川通五条下る西側 | ||
左女牛井之(さめがい)は、源頼義以来、義家、為義、義朝、義経までが拠点とした源氏六条堀川館内の井戸で、京の名水の1つであり、村田珠光や千利休も愛用したと云われています。 | ||
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松原橋 | ||
京都市下京区 | ||
牛若丸と弁慶の決闘「京の五條の橋の上」はこの橋のことなのです。 | ||
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扇 塚 | ||
京都市下京区下材木町 | ||
五條大橋の畔は時宗御影堂の遺跡であり、平敦盛没後その室・本寺祐寛上人によって得度し、連華院尼と称して寺僧と共に扇を作ったと云われています。 | ||
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五条大橋 | ||
京都市下京区都市町798 | ||
六条坊門小路の鴨川には橋が無く、秀吉は天正18年(1590)に当時の五条通(現松原通)の橋を現在の場所に移建しました。 なので、義経と弁慶が出会ったのは松原橋らしいよ。 |
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長講堂 | ||
京都市下京区富小路通六条下る本塩竈町529 | ||
寿永2年(1183)頃、後白河法皇(1127-92)が晩年を過ごした院御所「六条殿」内に建立した持仏堂が当寺の起こりです。 | ||
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西八条第跡 (にしはちじょうてい) |
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京都府京都市下京区観喜寺町 梅小路公園 | ||
西八条第は八条亭とも呼ばれ、平安時代後期、平清盛が平安京の八条壬生に構えた六町を有する広大な邸宅です。 | ||
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若一神社 西八条殿跡 |
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京都市下京区七条御所ノ内本町98 | ||
若一神社(にゃくいちじんじゃ)です。 平清盛公は、当地に西八条御所と称される別邸を造営します。 |
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若一神社 ゆかりの御神水 |
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京都市下京区七条御所ノ内本町98 | ||
仁安元年(1166)、平清盛公が熊野詣でをされた際に、「土中に隠れたる御神体、世に出し奉斎せよ」との御神詫を授かります。 | ||
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若一神社 御手植楠 |
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京都市下京区七条御所ノ内本町98 | ||
社前の御神木は、平清盛公によって植樹されたものと云われています。 | ||
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若一神社 祇王歌碑 |
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京都市下京区七条御所ノ内本町98 | ||
「萌えいずるも 枯るるも同じ野辺の草 何れか秋にあはではつべき」 白拍子・祇王、祇女や仏御前の物語も、西八条の邸宅での物語だそうです。 |
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平野神社 | ||
京都市北区平野宮本町1 | ||
源氏、平氏、高階氏、大江氏、中原氏、清原氏、菅原氏、秋篠氏から氏神として崇敬されています。 平慈子はよく平野神社に参詣し、舞を奉納したと云われています。 |
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船岡山 | ||
京都市北区紫野北舟岡町42 | ||
建勲神社(たけいさお)は、御祭神は織田信長です。 平安京の都造りの基準点で、都の中心である朱雀大路を延長した地点になっています。 |
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