兵庫県の太平記史跡1
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1
2
No.
史 跡
名 称
一口メモ
所在地
1
楠木正成 戦没地
(湊川神社)
吉良氏、高氏、上杉氏、石堂氏軍が楠木軍に立ち向かい、楠木軍は兵をなくしていくのです。
ついに楠木軍は兵73騎になり、民家にて正成と正季は差し違え、残りも皆自害するのです。
神戸市中央区多聞通3丁目1-1
2
広巌寺(楠寺)
瑠璃光苑
元徳元年(1329)、後醍醐天皇の勅願により明極楚俊禅師により創建されました。
建武3年(1336)、楠木正成が明極禅師と問答し、湊川の戦いにいどみます。
神戸市中央区楠町7丁目3-2
3
滝山城
元弘3年(1333)、大塔宮護良親王の令旨を受け赤松円心は、河内千早城の楠木正成を囲む幕府六波羅勢を摩耶城におびき寄せ撃退しました。
赤松軍はその勢いで京都へ攻め上がるも撃退し、滝山城に帰りました。
神戸市中央区城山
4
摩耶山城
元弘3年(1333)、大塔宮護良親王の令旨を受けて赤松円心は摩耶城に立て籠もり、河内千早城の楠木正成を囲む鎌倉幕府六波羅勢を牽制します。
その後、六波羅勢を摩耶城におびき寄せると、側面から攻撃し撃退します。
神戸市灘区摩耶山
5
六甲八幡神社
「太平記」の元弘3年(1333)、摩耶城合戦の条に「八幡林」とあるのは、当社の森のころです。
神戸市灘区八幡町3-6-5
6
湊川陣所
(会下山公園)
尊氏方は和田岬の新田軍を攻撃、 斯波高経は楠木正成が布陣する会下山の背後を攻め寄せました。
足利方の細川定禅が海路を東へ進み、生田の森へ上陸すると、義貞は戦線を離脱して東へ走るのです。
神戸市兵庫区会下山町
7
湊川陣所
(会下山公園)
後醍醐天皇は東上してくる足利勢に対して、楠木正成に兵庫で戦うように命じます。
新田義貞は和田岬に、楠木正成は会下山に布陣しました。
神戸市兵庫区会下山町
8
大楠公像 (湊川公園)
楠木・新田連合軍は、足利軍と湊川で対峙し、正成は700騎で、湊川の西に布陣します。
しかし正成は正季と差し違え自害、一族16人、家人50余りも自害するのです。
神戸市兵庫区荒田町1丁目21-1
9
藤之寺
兵庫津の豪商である北風家の伝承によると、建武3年(1336)、白藤姓を名乗っていた第44代・白藤惟村が南朝の後醍醐天皇方に加勢し、新田義貞に味方します。
神戸市兵庫区兵庫町1丁目2-8
10
福巌寺
(後醍醐天皇駐蹕之處)
元弘3年(1333)、後醍醐天皇が隠岐から京へ還幸の途中、この寺に立ち寄り行在所としました。
楠木正成や赤松則村(円心)など七千の公卿や武士が、天皇をお迎えにあがりました。
神戸市兵庫区門口町3-4
11
薬仙寺
(後醍醐天皇御薬水)
元弘3年(1333)、後醍醐天皇が隠岐から京に還幸の途中、兵庫で病床に伏しました。
当時の住職が、ここの霊水を薬水として献上し、服用したところ、たちまちのうちにご快癒されたと云われています。
神戸市兵庫区今出在家町4-1-14
12
福海寺
(足利尊氏公の石碑)
足利尊氏公が新田義貞軍に追われた際、福海寺の前身である針ケ崎観音堂に避難しました。
これにより命拾いされた尊氏は、康永3年(1344)報恩のため福海寺を開かせたのです。
神戸市兵庫区柳原・西柳原10-10
13
楠公供養石
(阿弥陀寺)
楠木正成公の供養石とも云われています。
建武3年(1336)、湊川の戦いで勝利した足利尊氏が須佐の入江の奥にあった魚の御堂で、楠木正成公の首改めをしたと云われる礎石です。
神戸市兵庫区中之島2-3-1
14
石峯寺城
(しゃくぶじ)
新田一族の金谷経氏が南朝方として赤松氏の攻撃に対抗し、この石峯寺にも南朝方の僧兵が籠もったお城と云われています。
神戸市北区淡河町神影
15
浄光寺
康安2年(1362)、南朝方の楠木正儀(まさのり)・和田正武勢は大阪天満宮あたりの天神の森に陣を置き、北朝方の箕浦俊定は浄光寺を城として利用し陣を構えたと云われています。
尼崎市常光寺3丁目5-1
16
大楠公戦跡
建武3年(1336)、後醍醐天皇を支持する楠木正成と、武家政権の樹立を目指す足利尊氏が、この地で激突し、足利軍が兵庫に敗走、楠木軍の勝利に終わりました。(打出合戦)
芦屋市楠木町14-23
17
師直塚
観応2年(1351)、高師直・師泰は尊氏の弟・直義により、摂津国打出浜で討ち取られるのです。(打出浜の戦い)京都へ護送される途中、この地において、子息五郎、弟師泰共に討たれ、高一族は滅びました。
伊丹市池尻1
18
本泉寺
境内の隅に、前三国守楠公(中央:楠木正成公)の墓があります。
右には従四位上小楠公の墓、左は楠正貞の墓です。
伊丹市伊丹2丁目3-38
19
光明寺合戦
観応2年(1351)、この五峰山を舞台に、足利尊氏と弟直義の軍勢が戦ったのが光明寺合戦です。
直義方の石塔頼房が光明寺に陣を置き、尊氏や高師直らが攻めたてたのです。
加東市光明寺433
20
一乗寺
元弘元年(1331)、鎌倉幕府討幕を図る後醍醐天皇の計画が失敗し、隠岐に配流されました。
2年後に脱出した後醍醐天皇は、京都に向かうが途中、ここ一乗寺に寄ったと云われています。
加西市坂本町821-17
21
浄土寺
永仁3年(1295)東大寺への訴状で、楠正成の祖父(父)と云わる河内楠入道が播磨国賀東郡大部荘(現在の小野市一帯)に入り、農民から年貢略奪を行い民から非難されたと云われています。
小野市浄谷町2094
22
足利義氏の五輪塔
足利左馬頭義氏(よしうじ)の墓と云われています。
五輪塔の造られら年代は分かりませんが、室町時代の初期に造られたと考えられています。
加古川市平岡町新在家559
23
七騎塚の碑
暦応4年(1341)、塩冶高貞妻早田夫人(顔世御前)が尊氏の執事高師直の横恋慕がもとで、高貞は逆心があるとされ京都を追われます。高貞の弟の六郎他七人が、この場にふみ止まり、戦うのですが全員討たれるのです。
加古川市船頭
24
七騎供養塔
(称名寺)
七騎塚は船頭附近にありましたが、洪水等で流されてしまいます。
この碑は、山田佐右衛門が願主となり、加古川の小石に法華経を一石に一字づつ書いて埋め、供養塔として建てました。
加古川市加古川町本町
25
塩冶判官妻の墓
(圓通寺)
高貞と妻は別々に出雲に逃れるも、この蔭山の宿で追いつかれ、草堂に火を放たれ、悲壮な最期を遂げました。
姫路市豊富町豊富
26
親王塚
護良親王の御子陸良親王の塚と云われています。 親王は観応の擾乱に赤松則祐に奉じられて、弥高山城から伊勢山まで進軍するのですが、病にかかり命を落として、この地に葬られました。
姫路市香寺町須加院
27
六騎塚
児島(和田)範長が最後の主従六騎となり、この辻堂で自害したとも云われいるよ。
児島高徳の父・範長主従六人の自害を弔って建立されてと伝えられています。
姫路市別所町北宿
28
和田範長の五輪塔
五輪塔は児島(和田)範長の墓と伝わっているよ。
尊氏との戦いに敗れ、最後に主従六騎となり、阿弥陀宿の辻堂で自害したといわれています。
高砂市時光寺町
29
和田備後守範長公
一族の墓
尊氏に対抗して、和田範長は脇屋義助勢と合流するため坂越に着きました。
八十三騎で赤松円心と戦うのですが、追い詰められ阿弥陀が宿の辻堂で一族五名自害するのです。
赤穂市坂越
30
児島三郎高徳
船坂山史跡之地
元弘2年(1332)、後醍醐天皇が隠岐島に配流される際、児島高徳は天皇を奪い返そうと、この地で待ち受けました。
しかし、幕府軍はすでに山陰方面に向かい、高徳は行き合うことができませんでした。
赤穂郡上郡町
岡山県備前市
31
後醍醐天皇
御駐驛傳説地
後醍醐天皇が途中で休まれた地です。
佐用郡佐用町縁応寺
32
杉坂峠
児島高徳は後醍醐天皇を船坂山で助けようと待っていましたが、天皇一行は北の杉坂峠越えで西に向かったのです。
高徳はすぐに向かうのですが、天皇はすでに杉坂から離れていたのです。
佐用郡作用町佐用2611-1
33
見性寺
ここ見性寺の本堂にて、尊氏と円心が北条倒幕を打ち合わせたと云われています。
たつの市御津町室津311
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