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忠盛燈籠 | ||
京都市東山区祇園町北側625 | ||
白河法皇が前方に鬼にようなものが見え、平忠盛に、討ち取ることを命じられました。 忠盛はこれを生捕りにしたところ、油壺と松明とを持ち、燈籠に燈明を献ろうとしていた祇園の社僧だったのです。 | ||
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六波羅蜜寺 | ||
京都市東山区松原通大和大路東入2丁目轆轤町(ろくろちょう) | ||
平安後期、平忠盛が当寺内に軍勢を止めて以来、清盛や重盛などが広大な域内に平家一門の邸館を置きました。 境内には平清盛公の塚と、右は阿古屋塚があります。 |
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崇徳天皇御廟 | ||
京都市東山区祇園町南側 | ||
崇徳上皇は、保元の乱(1156)により、讃岐の国へ配流されました。 上皇の寵愛篤かった阿波内侍は、遺髪を受けこの場所に一塚を築き、皇の霊をお慰めしたと云われいます。 |
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安井金比羅宮 | ||
京都府京都市東山区下弁天町 | ||
崇徳上皇がこの藤を愛でし、寵愛した阿波内侍を住まわせています。 崇徳上皇を祀り、金毘羅権現・源頼政を合祀し、安井金毘羅を称されたと云われています。 |
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佐藤継信、忠信の墓 | ||
京都市東山区渋谷通東大路東入北側 | ||
治承4年(1180)、奥州にいた義経が平家追討の挙兵した時、藤原秀衡の命により佐藤継信・忠信は義経軍に加わりました。 源義経四天王として活躍しています。 |
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祇園堂 | ||
京都市東山区祇園町南側604 | ||
祇園女御は、白河法皇(1053-1129)の寵妃で、平家物語(第六)によれば、法皇は子を産んだ女御を平忠盛に賜り、生まれた子が後の平清盛であるとされています。 | ||
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建仁寺 勅使門 (矢ノ根門) |
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京都市東山区小松町 | ||
勅使門は平清盛の長男重盛の六波羅邸の門、あるいは清盛の異母弟・平教盛の館門を移建したものと云われています。 傷は源平合戦でついものとも、足利尊氏の六波羅攻めの時とも云われています。 |
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後白河天皇 法住寺陵 | ||
京都市東山区本瓦町670-9 | ||
保元3年(1185)、後白河天皇は、法住寺の地を院の御所と定められ、上皇となって住まわれました。 | ||
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六道珍皇寺 | ||
京都市東山区大和大路通四条下る四丁目小松町595 | ||
寺域は、古来からの葬送の地、鳥辺野(とりべの)の麓で入口付近に当たることから、冥界との境界「六道の辻」と称され、お盆に帰る精霊は必ずここを通るともされました。 平清盛が火葬されたのが六道珍皇寺あたりと云われています。 |
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若宮八幡宮 | ||
京都市東山区五条橋東479 | ||
平安時代の天喜元年(1053)に、後冷泉天皇の勅願により源頼義が六条醒ヶ井(現在の西本願寺の北東辺り)に創建したのが当社の始まりと云われています。 | ||
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清水寺 | ||
京都市東山区清水1丁目294 | ||
比叡山延暦寺と奈良興福寺は仲が悪く、清水寺は興福寺の末寺でした。 延暦寺の衆が京へ押し寄せると、平家一門は六波羅へ、衆は清水寺を焼いてしまいます。 |
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東寺 | ||
京都市南区九条町1 | ||
後白河法皇の皇女である宜陽門院(せんようもんいん)は、空海に深く帰依し、東寺に莫大な荘園を寄進しました。 | ||
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平重衡受戒の地 | ||
京都市南区西九条池ノ内町 | ||
一の谷の合戦にて囚われの身となった平重衡が、鎌倉へ送られるまで八条堀川の御堂に居えられ、法然上人に浄土宗の教えを説かれ、戒を授けられた地です。 | ||
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六孫王神社 (ろくそんのう) |
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京都市南区八条町509 | ||
応和元年(961)、清和源氏の祖・源経基(つねもと)の嫡男満仲が経基邸宅跡に霊廟を建てたことに始まります。 | ||
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平等院 (源頼政の墓所) |
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宇治市宇治蓮華116 | ||
源頼政は、平清盛の横暴を憤り、高倉宮以仁王の令旨を奉じ、平家打倒の義兵を挙げました。 しかし平知盛が大軍を率いて宇治に迫り、頼政衆は大敗するのです。 |
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宇治川先陣の碑 | ||
京都府宇治市宇治 塔川・府立宇治公園(中の島) | ||
寿永3年(1184)宇治川の戦いで、木曾義仲軍と義経軍が宇治川で対峙し、その時、義経軍の梶原景季と佐々木高綱が先陣を争いました。 | ||
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頼政塚 | ||
亀岡市西つつじケ丘大山台1丁目-18-2 | ||
源頼政は、鵺(ぬえ)退治の恩賞として、丹波に領地を賜ります。 宇治平等院で敗北し自刃、 その亡骸は、郎党の猪早太が持ち帰り、この地に葬った塚が頼政塚なのです。 |
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古世地蔵堂 | ||
亀岡市京町 | ||
頼政は地蔵尊に祈願して見事鵺を退治し、褒美として獅子王と呼ばれる御剣と丹波に領地を賜ります。 そして所領内に御堂が建てられ矢ノ根地蔵として安置されたのです。 |
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小松寺 | ||
亀岡市千代川町千原東斉ノ本23 | ||
平重盛は六波羅小松第に居を構えていたことから、小松殿や小松内大臣と呼ばれていました。 千原村出身の妙善が重盛から石像を与えられ、重盛の死後村に帰り観音堂を建立し、安置したと云われています。 |
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西光寺 | ||
亀岡市安町31 | ||
治承元年(1177)、後白河院の平家討伐を謀議したとして知られる鹿ヶ谷事件に関わり死罪となった藤原師光入道西光法師の遺骨を、同庵に埋葬します。 そして西光寺として一字が建立され、開山を西光法師としています。 |
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那須与一堂 | ||
亀岡市下矢田町東法楽寺 | ||
阿部晴明がこの山に法楽寺を建立したことに始まります。 源平合戦で一の谷へ向かった源義経の軍勢に加わった那須野与一崇高はこのあたりで俄かに病にかかりました。 |
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文覚寺 | ||
京都府亀岡市保津町山ノ防88 | ||
源頼朝が平氏や奥州藤原氏を討ち、勢力を強める中で幕府の要人となり、神護寺、東寺、高野山大塔、東大寺など各地の寺院を勧請し、建物を修復します。 | ||
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