兵庫県の源平史跡 3
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No.
史 跡
名 称
一口メモ
所在地
93
多田神社
(清和源氏発祥の地)
御祭神は、第56代・清和天皇の御曽孫贈正一位・鎮守府将軍源満仲公です。満仲、頼光、頼信、頼義、義家の五公を奉斎するところで、源氏の祖廟であり、源氏発祥の地です。
川西市多田院多田所町
94
満願寺
ここ摂津の国は、勝道上人により満願寺は建立され、安和元年(968)源満仲が多田に館を構えると、源氏一門の祈願所になるのです。 坂田金時の碑もあります。
川西市満願寺7-1
95
九重の石塔(満願寺)
正応6年(1293)、源氏一族の女法尼妙阿が父母の極楽往生を願って造立した塔と云われています。
川西市満願寺7-1
96
源氏の七塔(満願寺)
伊豆守 源国房、出羽守 源光国、下野守 源明国、下総守 源仲政、山懸三郎 源国直、摂津守 源行国、兵衛太夫蔵人 源国基のお墓です。
川西市満願寺7-1
97
三廟(満願寺)
美女丸伝説の藤原仲光、美女丸、幸寿丸のお墓です。
川西市満願寺7-1
98
坂田金時の墓(満願寺)
天延4年(978)、金太郎は足柄峠で源頼光と出会い家来となり、坂田金時と改名し、頼光四天王の一人となりました。
四天王とは、坂田金時、渡辺綱、碓井貞光、卜部季武のことです。
川西市満願寺7-1
99
金時の兜石(満願寺)
丹波国大江山(福知山市)に住む酒呑童子が都に出てきて悪いことをするので、頼光と四天王たちは、大江山の酒呑童子・怪盗鬼童丸・妖怪土蜘蛛などを退治します。
川西市満願寺7-1
100
小童寺
源満仲の子・美女丸の身代わりに、重臣藤原仲光は子・幸寿丸の命を差出します。
美女丸は出家し、名僧源賢僧都となり、幸寿丸の菩提を弔うため小童寺を建立します。
川西市西畦野1丁目7-1
101
渡辺綱公御廟
(小童寺)
渡辺綱は、摂津源氏の源頼光(みなもとのよりみつ)の頼光四天王の筆頭として、江山の酒呑童子退治や京都一条戻り橋の上で鬼の腕を源氏の名刀「髭切りの太刀」で切り落とした逸話があります。
川西市西畦野1丁目7-1
102
頼光四天王の墓所
(小童寺)
「渡辺綱公御廟」を中央の上部に、その下段には、「渡辺綱公之墓」を筆頭に「卜部季猛公之墓」「平井保昌之墓」「坂田金時公之墓」の頼光四天王の墓所になっています。
川西市西畦野1丁目7-1
103
頼光寺
源満仲の夫人・法如尼により、四男の源賢僧都を開祖にして、源頼光の子・永寿が法如尼の念仏寺であった地蔵菩薩を本尊として開山されました。
川西市東畦野2丁目17-2
104
久々知須佐男神社
(矢文石)
多田満仲公は石の上から矢を放つと、頭が九つもある大蛇に突き刺ささり、大蛇の地水の引いた所が多く田のようになったので多田と名付け、源氏武士社会の発祥の地といわれています。
尼崎市久々知1丁目3-28
105
松原神社
崇徳天皇が讃岐(香川県)に移られる途中、大風雨を避けて、この地にご休息されました。
尼崎市浜田町1-6
106
采切塚
保元2年7月、崇徳上皇が讃岐に配流の際、浜田の地に逗留され「すくねづかの御製(ぎょせい)」を残されました。
尼崎市浜田町2丁目59
107
寺江亭跡
平氏政権の有力者の五条権大納言・藤原邦綱が築いた別邸が寺江亭です。
邦綱の娘が六条天皇、高倉天皇、安徳天皇三代の乳人でしたので、清盛の下で権勢をふるうことができたのです。
尼崎市今福2丁目17-121
108
大物主神社
源頼朝から追討された義経一行は、西国へ船出するため、当社東側にあった七軒長屋に逗留したと云われています。
この逗留の後、大物浦から船出した一行は、暴風雨のため押し戻され、奥州藤原氏を頼って逃れていくのです。
尼崎市大物町2丁目7-6
109
静なごりの橋
(辰巳八幡神社)
義経は都から落ち延び、摂津の国大物から船出するためこの地に着きました。
静御前をここから都に帰すよう弁慶がはからい、静は泣く泣く一緒に行くことを諦めます
尼崎市東本町1-2-2
110
尾浜八幡神社
(名月姫のお墓)
刑部左衛門尉国春という豪族が、長年子供に恵まれないので鞍馬山に願をかけたたところ、満月の夜に女の子が誕生し、名月姫と名付けられました。
丹波国の蔵人家包が一目ぼれをし、姫を能勢に連れて帰ってしまうのです。
尼崎市尾浜町1-4-27
111
大覚寺
大覚寺には「覚一本平語相伝次第」と呼ばれる覚一検校(かくいちけんぎょう)と平家物語の伝来に関わる古文書が残されています。
尼崎市寺町9
112
専念寺
平重盛が法然上人に帰依し、上人の弟子西仙房心寂(さいせんほうしんじゃく)を招いて、治承元年(1177)、東長洲に建立したと云われています。
尼崎市寺町12
113
西明寺
西明寺は浄土宗知恩院の末院で、文治年間(1185-90)に創建され、宗祖法然上人による開基と云われています。
尼崎市食満6丁目11-28
114
岡太神社
「小松内府 平重盛卿供養塔」があります。
平重盛は清盛の嫡男、小松殿と呼ばれ、この辺りは「小松庄」といい平氏の荘園があったそうです。
西宮市小松南2丁目2-8
115
鵺 塚
源頼政が二条院にまねかれ、深夜に宮殿をさわがせていた怪鳥をみごとに射落とします。桂川に流したところ、遠く大阪湾へ流され芦屋の浜辺に漂着するのです。
芦屋市浜芦屋町5-12
116
清荒神清澄清寺
「きよしこうじんせいちょうじ」と読みます。
源平の兵火により灰となりましたが、建久4年(1193)、勅命により源頼朝の手によって再興されました。
宝塚市米谷清1番地
117
平清盛五輪塔
平清盛は寺僧に自らの念持物と寺領500石を与えました。 この五輪塔は、養和2年(1183)に清盛の甥の忠快律師が清盛の厚恩に報いるため建立したと云われています。
明石市大観町11
118
両馬川旧跡
一ノ谷で敗れた平忠度は、海岸沿いに西へ落ちていきます。 これを岡部忠澄は十数余騎で追い、ここ両馬川で忠澄に追いつき、二人は馬を並べて組み討ちとなりました。
明石市大蔵天神町1-1
119
忠度塚
平忠度は忠澄を取り押さえた時、忠澄の郎等は主人の一大事とみて、平忠度の右腕を切り落としたのです。
明石市天文町2丁目2
120
腕塚神社
平忠度は清盛の末の弟で、文武に秀でた平家「一門の花」と呼ばれていたんだね。 敵も味方も、武芸、歌道にすぐれた忠度をおもい、涙したのです。
明石市天文町1丁目1
121
馬塚
寿永3年(1184)、一ノ谷合戦で敗れた平氏は西へ落ちました。
平経盛の子である平経正(敦盛の兄)の馬を埋めたところだと云われています。
明石市人丸町2
122
清水寺
薬師堂は平安時代の末期、平清盛の義母「池の禅尼」により創建されます。
多宝塔(大塔)は、平清盛の武運長久を祈願して、清盛の生母と云われる祇園女御により建立されました。
加東市平木1194
123
掎鹿寺
大乗院の北側から掎鹿寺に通じる道は、源平三草山の合戦後に一ノ谷をめざし、義経主従が通った道で「義経道」と呼ばれています。
加東市掎鹿谷692
124
三草山
(三草合戦)
三草山の西の山口に陣取る平資盛、平有盛、平忠房、平師盛など平家一門七千余騎は、不意の夜討ち弓矢を取るいとまもなく、もろくも屋島をさして敗走していきました。
加東市社町三草山
125
三草山合戦
モニュメント
「三草山合戦」があったところだね。 義経軍は平資盛を中心として守備をする三千騎の平家軍陣地に夜襲するんだ。
加東市上三草
126
いくさ野かなし池
義経に敗れた平氏がこのあたりまで逃げてきて、侍女らが悲しみ池の畔で水を飲んで喉を潤したとある。
加東市下三草
127
宝巌寺
いくさに敗れた平家の武士をかくまったが、源氏軍が取り囲み引き渡しを要求します。 でも応じなったので、焼かれたと云われているよ。
加東市喜田2
128
佐保神社
三草合戦の後、義経が軍兵をこの神社に集め、体制を立て直して、土肥実平に主力軍を預け一ノ谷に向かわせるんだ。
加東市社
129
山氏神社
勝利した義経が、社村の豪族多田将監の屋敷で一日だけ休み、一ノ谷に向けて出発。 今は境内になっている多田屋敷に義経が植えた「義経お手植えの松」があるはずなんだけど。
加東市社
130
弁慶の力石
源平三草山合戦モニュメントのすぐ北にあるよ。石に直径10cmほどの穴があるよ、弁慶が薙刀で突いたらしい。
加東市上三草
131
弁慶の投げ桜
三草山合戦で勝利した義経軍は、この付近で弁慶の頭に桜の木があたり、怒って枝を折り、地面に投げつけた場所から桜の木が育ちました。
加東市上久米
132
義経の腰掛岩
義経が一休みしていた岩だけど、少し見つけにくい小高い場所にある。この町では、河内源氏第五代源為義の十男・源行家と平忠盛の四男・平教盛が戦ったとも云われているよ。
小野市樫山町
133
粉喰坂
義経がこの坂にさしかかった時、行会った老女に道を聞きました。 そして空腹だったので、食物を乞うと、老女は麦をいぶして作ったハッタイ粉を差し出しました。
小野市樫山町
134
亀井が淵
義経の家臣・亀井六郎という弓の名手が山麓めがめて矢を放ったところ、不思議なことに岩間から湧き出したと云われている。
小野市樫山町
135
国位田碑
義経から年貢の免除を受けたことを示す石碑だそうです。江戸時代まで免除が続いたらしいよ。
小野市樫山町
136
8
弁慶の重ね石
ハッタイ粉を食べて満腹になった弁慶が、石を力いっぱい投げたらしい。
小野市樫山町
137
夜泣きの白拍子さん
源平合戦の頃、一人の白拍子が恋する侍を訪ねて池尻にやって来るのですが、恋人に会えぬ悲しみに夜も昼も泣き続け、命果ててしまうのです。
以来、夜泣きぐせのある子どもを連れてお参りすると、ぴたりと治ってしまうそうです。
小野市池尻町
138
浄土寺
治承4年(1180)、平重衡による南都焼討で、東大寺や興福寺が焼失、その再建に勧進職となったのが重源上人です。
周辺の東大寺荘園を再建の経済的基盤とするため、伊賀国・周防国など東大寺の「別所」を造り、その内の播磨別所が浄土寺です。
小野市浄谷町2094
139
義経のみち
小野から三木へ入ると、三木城の南の総合公園だね。ここを義経が通ったと云われているよ。
三木市福井
140
判官神社
義経に差し出した大飯の故事にちなんで、判官さんを祀ったと云われています。
三木市志染町三津田
141
弁慶の足跡
左の石に足跡みたいなくぼみがある。こうして三木から神戸一ノ谷へと向かうんだね。
三木市跡部
142
篠原神社
寿永3年(1184)、源義経と弁慶の一軍が一ノ谷合戦へ向かう途中、ここ篠原神社に立ち寄り、戦勝祈願をしたと云われています。
三木市口吉川町843
143
長明寺
(源頼政の墓所)
ヌエ退治の頼政です。
頼政は以仁王と組んで平家打倒の挙兵を計画します。
西脇市高松町
144
木曽義仲 供養塔
塔の北方100mに東光寺があります。東光寺の山号は木曽義仲の旭将軍にまつわる旭雲山(きょくうんざん)であり、寺紋が丸に笹竜胆(ささりんどう)で、源氏の紋なのです。
西脇市黒田庄町大門
145
那須の与一の石仏
須磨の那須与一の墓にお参りしていた播磨の人の夢枕に、与一が現れ 「汝、我を信じて参詣してくれているが、我が病気のかかっており、落命せり、神吉村の西にある釈迦堂という所で火葬され、坐折れの石佛は我の像なり」 とお告げがありました。
加古川市東神吉町神吉
146
長楽寺
高倉天皇が中宮建礼門院の安産を念じて、丹波老の坂の地蔵尊に祈願をされました。
すると、いとも簡単に玉のような皇子を拾いあげたことから、平清盛に命じて、全国六十余州の国々に一体ずつ安置させたものが、本尊の「木造地蔵菩薩半跏像」です。
加古川市志方町氷室853-1
147
経正神社
一ノ谷合戦(1184)に敗れ、この地で自刃したと云われ、その霊を祀る当社の在るこの地は「但馬守」と呼ばれています。
高砂市阿弥陀町長尾
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